思うに日本の終身雇用制と主婦制が最も良く機能していたのは六十年代の高度成長期で、その後、繊維や造船などの戦後初期の主力産業が急速に衰退していったときに、終身雇用の人材の流動性のなさが既に日本経済の足を引っ張り始めていた。
非常に高いビジネス能力を持つ者が、斜陽産業にいるというだけで、倉庫の雑務にまわされたり、窓際の椅子を温めてるだけになる。だからといって、一度会社を辞めると世間では落伍者扱いで、ろくな就職先もない。
その後オイルショックによって、高度成長期が終わった頃から、何度となく終身雇用制の問題点は指摘されてきた。
ただ、その都度立ち消えになっていったのは、終身雇用を前提に作られた日本の諸制度が、それをやめると大きく作り変えなくてはならず、与党も野党も尻込みした結果だった。
終身雇用制を維持するなら失業者はほとんど出ず、欧米レベルで言う完全雇用の状態が維持できる。そのため、セーフティーネットに予算をかける必要がなかった。これが、随時失業者が出てはやがて新しい産業に吸収されていくような社会になると、その繋ぎの間を保証するシステムを整備しなくてはならない。
終身雇用制の元では失業保険も生活保護も「人生の落伍者の貰うもんだ」で済んでいた。それを誰もが失業するものだという前提で整備し直さなくてはならない。
そうなると当然増税ということになる。欧米並みの消費税が必要となると、与野党とも選挙対策で躊躇せざるを得なくなる。
もちろんセーフティーネットだけの問題ではない。企業の人材育成は、基本的に新入社員が生涯会社を留まることを前提に、その会社独自の研修システムを作り上げていた。
そこには独自の仕事のノウハウだけでなく、会社への忠誠心を養うための様々な経営思想がが含まれている。これがその会社独自の常識を作り上げてしまっていて、余所の会社に移った時に一から教育し直さなくてはならなくなる。これが日本の企業が中途採用を嫌う原因となっている。
年功序列の給与体系もまた、転職の足を引っ張る。雇う方は新卒の若者と同様の賃金で済ますわけにもいかず、「高い買い物」になる。会社を越えた仕事のノウハウの統一がされていないので、一から教育し直さなくてはならなくなる。
そういうわけで企業は中途採用を嫌う。このことが一度失業すると再就職が困難になる原因となっている。
終身雇用をやめるとなると、企業を越えた普遍的なビジネス教育が必要になる。つまりビジネススクールを整備しなくてはならないし、通常の学校教育でもビジネスで役に立つ授業を行わなくてはならなくなる。これは均質な工場労働者の養成を前提としたこれまでの学校教育の根底を揺るがすことになる。
日本の学校ではお金の稼ぎ方は教えない。商品を売り込むためのプレゼンの仕方も議論や交渉の仕方も教えない。ただ従順に、決められた答えを答案用紙に書き込む能力だけが求められている。それらはすべて就職してから会社独自の研修の中で学ぶことになっている。そのとき必ず新入社員は先輩からこう言われる。「学校で学んだことは一度全部忘れろ」と。
終身雇用をやめるなら、日本の教育を根本から変えなくてはならない。学校を出たらその知識で、すぐにでも仕事ができる状態にしなくてはならない。
企業は社員研修のコストを削減できるが、その分優秀な人材確保のために、能力に応じた給与体系を作らなくてはならなくなる。給料を渋っていると優秀な人材が他社に引き抜かれてしまう。つまり人件費の高騰が起こる。
今までは会社に莫大な利益をもたらすような画期的なイノベーションを思いついた人がいても、通常の年功序列給に若干の金一封渡せばそれですんでいた。それができなくなる。これも企業の側が年功序列の解消に躊躇する要因になっている。
政治の世界でも大きな影響を与える。これまでは政治家を志すというのは年功序列社会からのドロップアウトを意味していた。年功序列がなくなれば、実社会に於いて真の実力を持った人間がいつでも政界に進出してくる。つまり、これが世襲議員の地位を脅かすことになる。
もう一つ問題なのは、日本の官僚が終身雇用制度の中で、独自の村社会を保っていることだ。国家公務員試験に受かり、一度官庁に採用されれば一生安泰で恩給までついてくるという生活設計が根本から崩れ去ることになる。そういうわけで、年功序列をやめることに関しては、まず官僚が反対するだろう。
年功序列をやめるということは、日本の社会のあらゆる場面に大きな変化をもたらすことになる。年功序列の廃止は、文字どうりの革命になる。それゆえにこれまで誰もが尻込みしてきたし、これからも尻込みし続けることだろう。それが今の日本だと言って良い。
鈴呂屋書庫の書き直し作業を進めている。今のところ「蕉門俳諧集 上」の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」から「色付や」の巻までと、「古俳諧、貞門、談林俳諧集」の宗因独吟「花で候」の巻を若干書き直したのでよろしく。
さて、だいぶ発句が続いたが、そろそろまた俳諧の方を読んでいこうか。
今回は天和調の代表とも言うべき『虚栗』の「山吹や」の巻を、『普及版俳書大系3 蕉門俳諧前集上巻』(一九二八、春秋社)からノーヒントで読んでみようと思う。
発句は、
山吹や无-言禅-師のすて衣 藤匂子
で、无は無と同じ。今でも中華人民共和国ではこちらの文字が用いられている。台湾や香港では繁体字の無が用いられている。元は別字だったという。
山吹の捨て衣というのは黄衣(くわうえ)のことで、この時代の日本では隠元禅師が着ているというイメージだったのではないかと思う。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「黄衣」の解説」に、
「① あさぎ色の上着。無位の人が着用するもの。
※続日本後紀‐承和七年(840)六月辛酉「流人小野篁入京。披二黄衣一以拝謝」
※太平記(14C後)一三「黄衣(クヮウエ)著たる神人、榊の枝に立文(たてぶみ)を著て」 〔論語‐郷党〕
② 黄色の法衣。僧の着る黄色の衣。ただし、もとは黄色を正色として、僧衣には用いなかった。
※参天台五台山記(1072‐73)六「是只被響応大師故也者、院中老宿等多著黄衣」 〔僧史略‐上〕」
とある。②の方の意味になる。
また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「黄衣」の解説」には、
「黄色の法衣。黄色は正色の一つであるところから初めは僧侶の衣には用いられなかったが,中国で用いられるようになった。元の時代にはたびたび朝廷から黄衣を与えられている。またチベットのラマ教の旧教が紅衣を用いているのに対し,ツォンカパ (宗喀巴) によって設立された戒律を重んじる新教では黄衣を着用している。」
とある。
隠元禅師の肖像を見るとラマ僧の黄衣にも似ているが、その辺の詳しいところはよくわからない。
捨て衣は文字通り打ち捨てられた衣で、山吹の花が咲いているのを見ると無言禅師という禅僧が打ち捨てて行った黄衣のようだ、というのがこの句の意味になる。
無言禅師は実在の僧ではなく、無言のうちに真理を語る高僧のイメージで作られたのではないかと思う。まあ、とにかく、山吹の花の色はお目出度いということだ。
脇。
山吹や无-言禅-師のすて衣
腕を薪の飢の早蕨 其角
立派な高僧としての黄衣を捨てて隠遁した無言禅師は、薪を腕に抱えて運び、早蕨を食べて飢えを凌ぐ。
早蕨というと、
岩そそぐたるひの上のさ蕨の
萌え出づる春になりにけるかな
志貴皇子(新古今集)
の歌が百人一首でもよく知られているが、早蕨は早春の野焼きとともに詠まれることが多く、晩春の山吹とともに詠まれることはない。「萌え出づる」も野焼きの「燃え出づる」と掛けていると思われる。
ここでは早蕨が山奥の山賤同様の身の隠遁者のイメージで用いられているので、発句のすて衣に付く。
山がつの衣の色に紫の
ゆかりぞ遠き道のさわらび
正徹(草魂集)
の歌もあるので、紫も黄衣も尊い色ということで並べたのかもしれない。
第三。
腕を薪の飢の早蕨
子路カ廟夕べや秋とかすむらん 其角
「子路カ廟」はよくわからない。子路は戦争で死に、その遺体は塩漬けにしてさらされたと言われている。
霞に早蕨は、
霞たつ峰のさわらびこればかり
折知りがほの宿もはかなし
藤原定家(風雅集)
の歌がある。「夕べや秋」は、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川
夕べは秋となに思ひけむ
後鳥羽院(新古今集)
で、これと合わせて考えると、腕に薪を抱えて早蕨で餓えを満たす夕暮れを、時節を心得ている宿だと思い、夕べは秋だけでなく春の早蕨の夕べも哀れなものだ、という意味になる。
孔子が遺体を塩漬けにされた子路を思い、塩漬け肉は食べず、蕨だけで我慢したということか。
四句目。
子路カ廟夕べや秋とかすむらん
其きさらぎの十六日の文 藤匂子
「其きさらぎの」は、
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
西行法師(新古今集)
であろう。
秋にも劣らぬ春の夕暮れの霞みに、その日は死ぬことなく十六日(いざよいひ)を迎えた。旧暦二月十五日は釈迦入滅の日でもある。
五句目。
其きさらぎの十六日の文
花鮎の䱜のさかりを惜む哉 藤匂子
䱜はシャク、あるいはサクと読むようだが、刺身のさくのことか。鮎のさくを桜に見立てて、如月の十六夜に散るのを惜しむ。
六句目。
花鮎の䱜のさかりを惜む哉
樽伐なりとひびく杣川 其角
杣川は滋賀県の甲賀の方を流れる川で、和歌では、
杣川のいかだの床のうきまくら
夏はすずしきふしどりなりけり
曾禰好忠(詞花集)
のように、杣人の筏、浮くという連想を誘う。
この場合は花見の酒の酒だるを切って筏にして、花鮎の盛りを惜しむとする。
初裏、七句目。
樽伐なりとひびく杣川
金滅す我世の外にうかれてや 其角
我世(わがよ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「我が世」の解説」に、
「① 自分の寿命。自分の生涯。
※万葉(8C後)一・一〇「君が代も吾代(わがよ)も知るや磐代(いわしろ)の岡の草根をいざ結びてな」
② 自分のものである世。何事も自分の思い通りになる世。
※小右記‐寛仁二年(1018)一〇月一六日「但非宿構者、此世乎は我世とそ思望月乃虧たる事も無と思へは、余申云、御歌優美也」
③ 自分の生きている世界。自分の範疇である世界。
※徒然草(1331頃)二六「うつろふ人の心の花に、なれにし年月を思へば、〈略〉我世の外になりゆくならひこそ、亡き人のわかれよりもまさりてかなしきものなれ」
④ 自分の所帯。自分の生活。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「小者が布子に、手染の薄色仕立着せる程せはしき内証、我世(ワガヨ)なればとて、面白からず」
とある。この場合は④で、余所で遊び歩いて財産を使い果たして、今は材木屋で働いている。
八句目。
金滅す我世の外にうかれてや
褞-袍さむく伯母夢にみゆ 藤匂子
褞-袍は「うんぼう」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「縕袍・褞袍」の解説」に、
「〘名〙 (「おんぼう(縕袍)」の変化した語) 綿入れの着物。また、粗末な衣類。人をののしって、その衣服をいうのにも用いる。うんぽう。わんぼ。
※玉塵抄(1563)一五「まゑまゑの守護たちはきぶう年貢をもをもうしてとらしますほどに一まいわんぼうさゑなかったぞ」
とある。
この場合は粗末な衣類の方であろう。寒くて故郷の伯母のことを夢に見る。両親とは早い時期に死別して伯母に育てられたか。
九句目。
褞-袍さむく伯母夢にみゆ
ひだるさは高野と聞しかねの声 藤匂子
出家して高野山で修行していると、質素な食事に腹は減るし、夜は寒くて残してきた伯母を夢に見る。『苅萱』の石童丸か。
十句目。
ひだるさは高野と聞しかねの声
心ン-鼠は昼の灯をのむ 其角
高野山というと空海弘法大師で、その書とされる般若心経に「鼠心経」と呼ばれているものがある。
ここではそれとは関係なく、ひもじさに心が鼠となって、行燈の油を飲む。
十一句目。
心ン-鼠は昼の灯をのむ
あさましき文字の賊衣魚となる 其角
賊衣魚は「ぬすびとしみ」とルビがある。衣魚(しみ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣魚・紙魚・蠧魚」の解説」に、
「① (体形を魚に見立てて多く「魚」の字をあてる) 総尾目シミ科に属する昆虫の総称。体長八~一〇ミリメートル。体は扁平で細長く、全体に銀白色の鱗片(りんぺん)でおおわれる。頭部に糸状の触角、体の後端に三本の尾毛がある。原始的な昆虫で、はねはなく変態もしない。家屋の暗所を好み、本、衣類の糊などを食べる。洞穴や落葉の下にすむ種類もある。温帯に広く分布し、日本ではヤマトシミが普通にいる。しみむし。きららむし。《季・夏》 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
② 書物ばかり読みふけって、実社会のことにうとい者をあざけっていう語。〔モダン語漫画辞典(1931)〕」
とある。
鼠心経の文字を盗んでいったのはシミ虫だった。
十二句目。
あさましき文字の賊衣魚となる
小袖をさらす凉店の風 藤匂子
凉店は「|てん」とルビがある。この縦棒はよくわからないが、前句の「文字の賊(ぬすびと)から、このルビがシミ虫に盗まれたということか。
虫の食われないように小袖を風にさらす。
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