今日は雨も止んでようやく晴れた。
あちこちでツツジが咲き出した。
今日は十六夜で満月は明日とのこと。
ひょっとして人権派の人たちってポルノサイトを見ることってないのかな。男なら密かに見てると思うけど、ただ漫然と見るのではなく、あそこからも学ぶべきことはたくさんあると思う。
まずは性的嗜好の驚くべき多様性だ。これを見れば、おっぱいの大きな女をドーンと出せば男どもはみんな興奮するなんてのは嘘だとわかるはずだ。おっぱいはその種の嗜好の人にしかアピールしない。
昔は限られたポルノ媒体しかなかったから「選べない」ということもあったけど、これだけ選べるようになるとはっきりするのは、男の欲望がいかにピンポイントなものかということだ。
無数にあるポルノビデオも、そのほとんどの物はすぐ見飽きてスルーするようになる。そのなかで、これは抜けると思う物は本当に少ない。同じようなシチュエーションで似たような女優を使っても、抜けるものと萎えるものがある。これは本当に不思議だ。
まあ、普通に考えて、男の嗜好が多様でなかったなら、人類はとっくに滅んでいたね。どんな女性でもそれを好む男がいるから、人類はここまで増えてしまったんだ。
昔の社会は女性が家同士で物として交換される社会だったから、そのための商品管理の必要があって、ステレオタイプ的な「女らしさ」というのが存在したのは事実だ。そういう時代は男どももこういうのが女だと洗脳されてたのかもしれない。
ただ、ひとたび男の欲望が無数のポルノによって解き放たれてしまうと、こうしたステレオタイプへの興味が急速に失われてゆく。昔は人気アイドルは御三家だとか何とかトリオだとか言われて、ほんの一握りのアイドルに好みが集中していたが、いまは四十八人単位で無数のアイドルグループが存在する。
メジャーなアイドルだけでなく、様々な地下アイドルが存在するし、アニメキャラでも今どき一人のヒーローやヒロインに好みが集中するなんてことはない。
新聞の一面を巨乳キャラが飾ったとしても、ピンポイントにはまる人以外は皆スルーしている。逆に言えば、どんなキャラを使おうと、必ずピンポイントでそれに興奮する奴はいる。
性的嗜好の開放が進めば、性の商品化も恐ろしく多様化し、様々なニッチなロングテール市場を形作る。この現実に人権派やフェミニストの人たちも、早く適応してほしいものだ。巨乳叩きは卒業しよう。
それでは『蛙合』の続き。
「第三番
左勝
きろきろと我頬守る蛙哉 嵐蘭
右
人あしを聞しり顔の蛙哉 孤屋
左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て
妙なり。かなと留りたる句々多き中にも、此
句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字
をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼
拉一体、これらの句にや侍らん。右、足
音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍
りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」
嵐蘭の句は「我頬(わがつら)守る」の中七文字が生命だという。「我面」と書いた方が分かりやすいが、「つら」には単に顔というだけの意味ではなく、「つらを汚す」というように、体面という意味もある。
「頬(ほほ)」だとすると、芥川龍之介の『芭蕉雑記』の中に、
「芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。」
とあるが、「頬がまち」という場合は外面ではなく、その隠された部分という意味がある。
頬は顔の輪郭を構成する重要な部分で、「頬歪む」は事実をゆがめるという意味を持つ。
ただ、この場合は頬の字は当てるが「ツラ」を守るなので、体面を保つとか、体裁を取り繕うだとかそういうニュアンスがあるように感じられる。きろきろと鳴きながら顎を膨らませている姿は、どこか威張っているような印象を与える。
「きろきろ」は蛙の鳴き声と思われるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「きろきろ」の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 目などの光るさま、また、落ち着きのない目つきを表わす語。
※狭衣物語(1069‐77頃か)三「おとどはよしな。嵯峨の院こそ、頭はきろきろと、恐ろしげなれ」
とある。この場合、発音は「ぎろぎろ」で、今でいう「じろじろ」ではないかと思う。
ここでは単に蛙の鳴き声で、ケロケロ鳴きながら体面を保っている蛙ではないかと思う。
哉は治定の哉で、単なるストレートな断定ではなく、「そうだろうか」と一度疑いならの「やはりそうだ」という主観的な断定になる。「我頬守る」は人間の側からの擬人化で、人間の側の感情の投影なので、単純な断定ではなく治定の「哉」がふさわしい。関西弁っぽく言えば「我が頬守ってんがな」だ。
「鬼拉一体」は拉鬼体(らっきてい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拉鬼体」の解説」に、
「〘名〙 藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。→十体(じってい)②(ハ)。
※毎月抄(1219)「かやうに申せばとて必ず拉鬼躰が歌のすぐれたる躰にてあるには候まじ」
とある。鬼を拉(ひさ)ぐ、つまり鬼を押しつぶすということで、力で圧倒するような体をいう。
例として定家は十二首の歌を掲げているが、その冒頭の歌は、
ながれ木とたつ白波とやく塩と
いづれかからきわたつみのそこ
菅原道真(新古今集)
で、掛詞や縁語などの小細工がなく「いづれかからき」に力が込められている。
孤屋の句は人が近づいてくる足音を知っているかのように、人が来るとかたっと鳴き止むという句で、あるあるネタとしてはわかるが、「人あしを聞しり顔」はわりと普通の言い回しで、「我頬守る」ほどのインパクトはない。「我頬守る」の勝ちになる。
「第四番
左持
木のもとの氈に敷るる蛙哉 翠紅
右
妻負て草にかくるる蛙哉 濁子
飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花
みる人の心なきさま得てしれることにや。つ
まおふかはづ草がくれして、いか成人にかさ
がされつらんとおかし、持。」
氈(せん)は毛織の敷物のことで、花見のなどの時に貧乏人は筵を敷いて金持ちは毛氈を敷く。
そのため「氈に敷るる」は「花みる人の心なきさま」の連想にすぐに結びついた。毛氈を敷く時に慌てて逃げて行く小さな蛙の姿が浮かんでくる。どことなく、庶民を蹴散らして行くお偉いさんの風姿のようにも見える。
「妻負(おう)て」の句もそうやって逃げて行く蛙の姿で、生物学的に言うなら、上にいる方が雄であろう。古語だと「妻」は夫婦両方の意味があるから、どっちでもいいことではあるが。
まあ、交尾の最中に邪魔されてそのまま逃げてゆくわけだが、古典の風雅の情としては、『伊勢物語』第六段の鬼一口であろう。絵に描く時には在原業平が女をおんぶして逃げる場面が描かれている。
「いか成人にか探されつらん」は、見つかったら鬼一口だぞ、という意味だろう、そういう想像が膨らむ所でも、この句も捨てがたく、持ち、つまり引き分けになる。
「第五番
左
蓑うりが去年より見たる蛙かな 李下
右勝
一畦はしばし鳴やむ蛙哉 去来
左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほ
し。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情
猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる
作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたより
あるにや。長是群蛙苦相混、有時也作
不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」
蓑売はその言葉の意味は蓑を売り歩く人だが、どういう人たちだったのか、その実態はよくわからない。簑笠は田植の時の晴れ姿でもあるから、田植の前に売り歩くものなのだろう。
簑笠が単なる雨具ではなく神具の意味があったとするなら、そういった関係者なのだろう。
簑笠は田植だけでなく、竹植える日(旧暦五月十三日)の晴れ姿でもあった。
降らずとも竹植うる日は蓑と笠 芭蕉
の句がある。
その蓑笠売りが去年と同じように、売り歩く時に蛙を見るということで、別に同一個体という意味ではない。蛙の個体識別は無理だろうし。
季節的には春の蛙だとやや早く、夏の水鶏(くいな)の方がふさわしかったのだろう。風情はあるが、そこが疵になる。
「一畦は」の句も、蛙という題材ながら初夏の田植の頃を連想させるという意味で、「蓑売」の句と対になったのだろう。片方の田に人が入れば、その田だけ一枚、蛙の声が止む。
「閣々蛙声」の句は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、
「円機活法二十四・蛙の箇所に「濮陽伝詩」として「閣閣の蛙声聞くべからず」をあげる」とある。
その詩は蛙ではなく蜂の所に、
濮陽傳詩
過再花飛暮色殷 浮沉風遣月穿雲
夜來魚卵乖春夢 閣閣蛙聲不可聞
とある。
「長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴」の句は蝶の所に、
長是群蛙苦相混 乗時不羨雲溟樂 城邊鼾睡休驚醒
有時也作不平鳴 口作儀同鼓吹聲 免使三軍動戦情
とある。
蛙軍(かへるいくさ)は、
歌軍文武二道の蛙かな 貞室
の句があり、歌を詠む蛙とともに俳諧のネタになっていた。
蛙軍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛙軍」の解説」に、
「〘名〙 蛙が群集して、争って交尾すること。多くの蛙が戦っているさまに似ているところからいう。早春にアカガエル、ヒキガエルが行なう。がま合戦。蛙合戦。かわずいくさ。」
とある。
去来の句もそのネタで、強いものが来ると軍は収まるが、その力の及ばない所で蜂起するという風刺を込めていたか。その寓意を取って勝ちとする。
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