今日は寺家ふるさと村を散歩した。染井吉野も山桜もまだ散らずに残っていた。鶯の声に混じって今年もガビチョウが鳴き始めていた。田んぼも打ち返していて、蛙の声も聞こえた。
そういうわけで、日本の心、山桜(本日撮影)。
ブチャの虐殺は、まさかこんな早く奪還されると思わなかったのか、隠す暇もなかったみたいだな。これでインドが日和見をやめてこちら側についてくれれば、中国は孤立する。
どんな議論でもその反対の議論をすることはできる。このことは簡単に言えば、不満や恨みや嫉妬という感情があれば、あいつらを見返してやろうという気持ちがあれば、そいつらの行っていることと真逆の論理を作り出すことができるということだ。
世にどんなことにでも必ずアンチというのがいるのはそのためだ。
古代ギリシャ人はこのことに気付いた時から、対立する意見を統合するより大きな論理を作ればいいと考えるようになった。これが世にいう弁証法だ。
しかし、その大きな理論に、またいとも簡単にアンチが現れる。それを延々と繰り返し、絶対知はいつまでも沈黙している。それがヘーゲルの辿り着いた境地だった。これが近代哲学における最初の「哲学の終わり」だと言われている。
なぜ弁証法は絶対知に行きつかず、いつまでも沈黙を続けるのか。ハイデッガーが出した結論は「真理の本質は自由」であるからだ。ここで二度目の哲学の終わりが示された。
第二次大戦の悲惨の虐殺、そしてそれが終わってなお続く冷戦。その中で哲学者たちは猛省した。これまで作り上げてきた巨大なイデオロギーの化け物の解体作業(デコンストラクシオン)が始まった。
しかし、哲学は終わらない。人の心に不満や恨みや嫉妬がある限り、アンチの議論は絶えず再生産される。ただわかったのは、弁証法はこうした議論を解決できないばかりか、常人には近寄れないような巨大なイデオロギーを作り上げてしまい、対立を深めるだけだったということだ。
ひとたび猜疑心に憑りつかれると、どのような弁明も「疑惑は却って深まった」となるようなものだ。
議論は人を欺く。大事なのは「自由」の原点に返ることだ。自分が何をしたいのか、自分が何を守りたいのか、一切の哲学を忘れた時、きっと思い出すことができる。 平和にとって大切なのは硬直した理論ではない。柔軟な心を取り戻すことだ。それは差別のない世界を作るのにも必要なことだ。
それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き、挙句まで。
名残裏、九十三句目。
四方の木どもの紅葉する比
冷じや嵐の風も心あれ 忍誓
せっかく山は奇麗に色づいたのだから、嵐で散らさないでくれ。
「心あれ」は、
われこそは新島守よ隠岐の海の
荒き波風心して吹け
後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)
を思わせるが、それ以外にも花や紅葉に関しては「心して吹け」は珍しい言い回しではない。
大原野の祭に參りて周防内侍に遣しける
千代までも心して吹けもみぢ葉を
神もをしほの山颪の風
藤原伊家(新古今集)
の例もある。
「本歌連歌」の本歌は、
ちりはつる四方の紅葉の色ながら
梢にさそふ風ぞ難面き
で、日文研の和歌データベースにはない。
「四方の紅葉」の用例は、
惜しめどもよもの紅葉は散りはてて
戸無瀬ぞ秋のとまりなりける
春宮大夫公實(金葉集)
小倉山時雨るる頃の朝な朝な
きのふは薄きよもの紅葉葉
藤原定家(続後撰集)
などがある。「四方の紅葉」の風に散るのを歎く趣向の典拠なのだろう。
九十四句目。
冷じや嵐の風も心あれ
来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる 専順
あの人が訪ねて来ない夜はただでさえ悲しい。嵐の風も心して吹いてくれ。
「本歌連歌」の本歌は、
出でがての月より人を待ち侘びて
いかが明かさん長き夜のそら
で、日文研の和歌データベースにはない。月に待ち侘ぶの典拠となる。
九十五句目。
来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる
蛬むなしき床に音をそへて 心恵
蛬は「きりぎりす」。
「本歌連歌」の本歌は、
月に待つ人のおもひをきりぎりす
難面残る老が身の露
で、日文研の和歌データベースにはない。月待つ夜のきりぎりすの典拠であろう。
恋の歌で「月に待つ」は意外になかったのか、
今こむとたのめし人のいつはりを
いくありあけの月にまつらむ
宗尊親王(続拾遺集)
の歌も八代集より後の時代になる。
九十六句目。
蛬むなしき床に音をそへて
夢壁にさへ見えずなりけり 宗砌
キリギリスの声で眠れないから、夢にさえ逢うことができない、とする。
壁はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①壁。草・板・土などで作る。
②夢。◇「(壁を)塗る」と「寝(ぬ)る」を掛けていう。主に和歌で用いられる。
③豆腐。◇女房詞(にようぼうことば)。」
とある。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、
まどろまぬかべにも人を見つるかな
まさしからなむ春の夜の夢
駿河(後撰集)
の歌を引いている。
「本歌連歌」の本歌は、
我が恋はくらき夜の夢月の入る
嵐の音をねぬになせこそ
で、日文研の和歌データベースにはないが、よく似た歌に、
あふことぞくらき夜の夢月の色
嵐の声はねぬになせども
正徹(草魂集)
の歌がある。嵐の声に眠れないから夢ですら逢えない、というところから、嵐をキリギリスに変える。
九十七句目。
夢壁にさへ見えずなりけり
契りしもくやしと人の思ふらん 行助
夢にすら現れなくなったのは、あの人が契りを結んだことを後悔し、もう逢いたくないと思っているからだろうか。
「本歌連歌」の本歌は、
偽を何なかなかに空だのめ
契りし中のたゆる夢の世
で、日文研の和歌データベースにはない。契ってた仲の絶えて、夢を見ることのできないという趣向の典拠であろう。
九十八句目。
契りしもくやしと人の思ふらん
忍びつる名を世にはもれてき 忍誓
前句の「くやし」を忍んでた恋が暴露されてスキャンダルになったことの悔しとする。
「本歌連歌」の本歌は、
かよひぢをいかなる人やはつるらん
忍ぶ思ひははれぬ中空
で、日文研の和歌データベースにはない。忍んでいた恋の通ってくる人が来なくなったことの典拠か。
九十九句目。
忍びつる名を世にはもれてき
御幸する桜が本の今日の春 宗砌
お忍びの心算の御幸だったが、桜の花のもとでは静かにしてられるはずもなく、世間に広く知られることになる。
あえて「桜が本」を花の本の連歌の寓意として捉えるなら、この本歌連歌は今まで知られなかったような作者の歌やそこに用いられた言葉、趣向などがここで露わになる、といったところか。
「本歌連歌」の本歌は、
百敷や大宮人はいとまあれや
桜かざしてけふも暮らさん
で、
百敷の大宮人はいとまあれや
桜かざしてけふも暮らしつ
山部赤人(新古今集)
であろう。大宮人の花見の心を本歌とする。
挙句。
御幸する桜が本の今日の春
花に相あふ日こそ稀なり 光長
光長はこの一句のみで、主筆であろう。挙句を主筆が締めることはよくある。
最後に御幸の桜が出た所で、こういうお目出度い日は稀なことだ、と一巻は目出度く終わる。
特に本歌はない。さすがに無名の主筆に過大な要求はしなかったのだろう。
宗砌、忍誓、行助、専順、心恵という当代きってのメンバーがそろったのは、この連歌の実験的性格からで、通常の連衆では困難だったに違いない。歌学にも通暁し、雅語を自在に使いこなせるメンバーだからこそ、俗歌の言葉や趣向を借りながら、それを雅語に取り込み、雅語の世界をより広く豊かなものにという試みだったのだろう。
あらためて今日の我々に、雅語とは何だったのかというのを問いかけているように思える。俳諧でも貞門・談林までは證歌というのを必要としていた。それは俳諧がまだ連歌の下に置かれていたからで、雅語の習得ということに重点が置かれていたからだった。
芭蕉が俳諧を「俗語の連歌」と位置づけ、雅語の習得を不要としたことで、それ以降の我々は雅語を守るための並々ならぬ努力を忘れてしまったところがある。
中世の連歌のみならず、中世の和歌を語るにも、雅語という問題は避けて通れない。正徹などの室町時代の歌人も、単に雅語を守るだけでなく、それを更に発展させようと、絶えず実験を繰り返してたのではないかと思う。
今となって、特に明治以降、俗語で和歌を詠むのが当たり前になってしまって、中世文学そのものがほとんど顧みられなくなってしまったが、この本歌連歌は当時の雅語の維持と発展に対する情熱を伝えてくれる貴重なものではないかと思う。
なお、本歌という言葉は、今日では古典の授業でも習う、新古今集の時代の本歌取りの際の本歌の意味に限定されているが、中世の連歌や近世の俳諧ではもう少し広い意味で用いられていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿