2022年4月17日日曜日

 思うに同性愛というのは男と女とは違う第三の性が存在するのではなく、男女それぞれにある性的嗜好の多様性の一つなんだと思う。要するに趣味の問題なんだと思う。この趣味という考え方は、日本では多くの人が支持していると思う。
 一度性的少数者のことを言い出すと、LGBTだったのがLGBTQになり、さらにLGBTQIAPZNになっていったように、際限なく多様な性が存在することになる。
 同じ異性愛でもおっぱいやら足やら尻やら様々なフェチがあり、デブ専や熟女趣味もあれば、ロリやB専もあるように、その延長線上に同性フェチがあると考えても良いのではないかと思う。LGBTなる「性」が存在するのではなく、たまたま同性へ拡張されたフェチが存在すると考えた方が良い。
 とにかくこの問題はそんなに難しいものではない。
 ごく稀な両性具有を除けば、人はペニスを持つ者か子宮を持つ者かどちらかに生まれる。
 後はそれぞれ後天的な脳回路の形成の段階で、偶発的に様々な性的嗜好が生じるにすぎない。
 LGBTはこうした多種多様な性的嗜好がたまたま男女の境界を越えただけにすぎない。
 多種多様な性的嗜好は基本的に等価であり、自由であるべきである。ただ、それが暴力となる場合のみ抑制されなくてはならない。
 この場合の暴力は、単純な暴力と、未成年者への暴力と、ペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力との三種類があり、いずれも犯罪として禁止されなくてはならない。
 特にペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力を抑止するための、公衆便所や公衆浴場や更衣室などでのペニスを持つ者と子宮を持つ者との分離には、一定の合理性がある。
 スポーツにおける男女の別は、基本的にペニスを持つ者と子宮を持つ者との肉体的な差異によるものであり、心と関係なく肉体によって分けられるべきである。
 婚姻は基本的に肉体や精神と無関係に自由であるべきだ。ただ、複数のパートナーを容認する場合は、それが異性間にも平等に適用された場合、一夫多妻の容認に繋がるので慎重に決めなくてはならない。
 多分西洋と西洋崇拝者の人権の議論がおかしいのは、未だに異性に対する無差別な欲望とそれを制御する理性という、古い霊肉二元論の形而上学が支配しているからだと思う。
 この理論だと、おっぱいどーんの画像があれば、すべての男が等しく欲情するという仮説も成り立つ。そんな下らない理由で巨乳叩きをやっているなら、すぐにでもやめるべきだ。
 また、この理論だとLBGTが説明できないものだから、そこであたかも男でも女でもない第三、第四の性が存在するかのような幻想が生じてくる。LBGTそれぞれに独立の性として個別に法律を作るとなると、社会がどうしようもなく煩雑になり、かえって軋轢を生むことになる。それが欧米社会の病だ。
 性欲は無差別かもしれないが、それは対象が女に限定されないどころか、人間にすら生物にすら限定されていない。対象は後天的に刷り込まれ、発達過程で偶発的に様々な脳の回路が形成されると考えた方が良い。そうでなければ性的嗜好の多様性は説明できない。
 そして、それとは無関係にペニスを持つ者はばら撒く性としての性質を具え、子宮を持つ者は選ぶ性としての性質を具えている。これは先天的な部分に属するため、個体差はあるが大まかな傾向として存在している。
 個体差があるというのは、男女で背の高さが違うようなものと考えていい。個体差が性差を上回るために、個別的に見れば一概に言えないが、平均すれば性差は存在する。男がばら撒く性だとはいえ一穴主義者は存在するし、女が選ぶ性だとしてもビッチは存在する。
 それでは『蛙合』の続き。

 「第六番
   左持
 鈴たえてかはづに休む駅哉     友五
   右
 足ありと牛にふまれぬ蛙哉     琪樹
   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心に
   こりて物うきねざめならんと感太し。右、
   かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよ
   めるを、やさしく云叶へられたり。野径のか
   はづ眼前也、可為持。」

 駅が「むまや」と読む。馬屋のことで宿場の伝馬のいる所であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」

とある。伝馬ではあっても、一般の貨物の輸送も行い、忙しい時には駆り出されたようだが、ここでは伝馬の鈴も鳴らない夜の間は辺りでは蛙が鳴き、それを聞きながら馬がゆっくり休んでいる。
 なお、駅の鈴は、『和漢朗詠集』に、

 漁舟火影寒焼浪。駅路鈴声夜過山。
 秋夜宿臨江駅 杜荀鶴

とある。
 「足ありと」の句は、

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり
     角のあればとて身をば頼みそ
               寂蓮法師(夫木抄)

の歌を踏まえて、カタツムリと違って蛙にはぴょんと跳ねる立派な足があるから、牛に踏まれることもない、とする。
 馬の蛙の声を聞きながらの、仕事に追われることのない穏やかな朝のけだるい雰囲気もさることながら、蛙の牛に踏まれることを心配し、気遣う「細み」も捨てがたく、引き分けとする。

 「第七番
   左
 僧いづく入相のかはづ亦淋し    朱絃
   右勝
 ほそ道やいづれの草に入蛙     紅林
   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さ
   ながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入
   かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の
   方には心よせがたし。」

 「雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき」は、『和漢朗詠集』の、

 蒼茫霧雨之晴初。寒汀鷺立。重畳煙嵐之断処。晩寺僧帰。
 閑居賦 張読

を踏まえたもので、ここでは入相の鐘ではなく、雨上がりの蛙の鳴き声に僧が帰るとする。古典の情を受けついて、「入相の蛙」と卑俗に落とすパターンだ。ただ、これだとオリジナルの「閑居賦」の情を越えられない。」
 「ほそ道や」の句が何で僧の句と並べられたのかというと、おそらく『和漢朗詠集』つながりで、

 帰谿歌鴬更逗留於孤雲之路。辞林舞蝶還翩翻於一月之花。
 今年又有春序 源順

と対にしたのであろう。鶯の孤雲之路の逗留を元にしながらも、細道の蛙は逗留する草すらないという哀れさで、羇旅の哀愁もあっての勝ちとする。

 「第八番
   左
 夕影や筑ばに雲をよぶ蛙      芳重
   右勝
 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪
   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を
   乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。
   右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる
   草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 筑波の蛙というと蝦蟇の油の縁がある。ウィキペディアに、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。主成分については植物のガマの花粉「蒲黄(ほおう)」とする説やムカデを煮詰めた「蜈蚣(ごしょう)」、馬油とする説もある。」

とある。蝦蟇の油はこの頃からあったものの、あの有名な口上は、わりと最近の物とも言われている。江戸時代にあったかどうかはよくわからない。
 第一番の仙化の句の「蛙つくばふ」も、蛙と筑波の縁によるものと思われる。
 筑波山の雲は、

 君が代は白雲かかる筑波ねの
     峰の続きの海となるまて
               能因法師(詞花集)

の賀歌にも詠まれている。そのお目出度い筑波山の雲を、雨を欲しがる筑波山の蛙たちが呼んだものだとする。雨は農耕に欠かせぬもので、春の時期の雨は田植の水としても重要になる。
 蛙の声に筑波山の雨を呼び、豊年満作を願うスケールの大きさは認められる。
 これに対し暁の念仏は、

 ものをのみ思ひ寝覚め枕には
     涙かからぬ暁ぞなき
               源信明(新古今集)

の心か。この思いを断つために出家し、せめては草庵に念仏を唱える尼僧とする。
 神祇と釈教の対決ではあるが、ここでは本地たる釈教の勝利とする。

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