2022年4月11日月曜日

 「兼好も」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは『阿羅野』の花三十句の残り。

 はつ花に誰が傘ぞいまいまし   長虹

 初花は元は年の初めに咲く花だったが、最初に咲く桜の意味にも用いられる。桜の初花は『為忠家後度百首』(一一三五年)の、

 山深くたづぬるかひやなからまし
     初花桜にほはざりせは
              藤原為忠(為忠家後度百首)

に一例あり、『宝治百首』(一二四八年頃)の、

   初花
 軒ばなる初花さくらあかなくに
     かねて日数の春もうらめし
              信覚(宝治百首)
   初花
 しら雲のあまたにやらすたつた山
     初花桜いまさきにけり
              藤原為経(宝治百首)

などを含む、一連の「初花」という題で桜を詠んだ作品群の頃には、一般的に定着したか。
 句の方は、初花がせっかっく咲いたのに唐傘が邪魔で見えない、ということか。

 柴舟の花咲にけり宵の雨     卜枝

 柴舟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「柴舟」の解説」に、

 「〘名〙 (「しばふね」とも)
  ① 柴木を積んだ小舟。たきぎにする雑木の小枝を載せた舟。しばおぶね。
  ※堀河百首(1105‐06頃)雑「もとめつるおまへにかかる柴舟のきたげになれやよるかたもなき〈源俊頼〉」
  ② 江戸時代、松葉、青柴などを、瓦を焼く薪用に運送した小廻しの廻船。大坂には紀州、阿波、土佐、日向などからくるものが多かった。〔和漢船用集(1766)〕」

とある。和歌では、

 くれてゆく春の湊は知らねども
     霞におつる宇治の柴舟
              寂蓮法師(新古今集)

のように「宇治の柴舟」として詠まれる。

 柴舟のかへるみたにの追ひ風に
     波よせまさる岸の卯の花
              藤原俊成(夫木抄)
 あさひ山岸の山吹咲きにけり
     花のしたゆく宇治の柴舟
              飛鳥井雅縁(為尹千首)

など、卯の花や山吹を詠んだ例はある。
 宵の雨に柴舟の上に花が散って、柴舟の花が咲くということか。

 おるときになりて逃けり花の枝  鷗歩

 咲いているのを見て後で折に行こうと思っていたら、誰かが先に折っていたのだろう。考えることはみんな同じ。

 連だつや従弟はおうし花の時   荷兮

 「おうし」は「おほし(多し)」の間違いであろう。花見となると俄に従弟と称する人が集まってくる。

 疱瘡の跡まだ見ゆるはな見哉   傘下

 疱瘡はここでは「はうさう」だが、「いも」ともいう。元禄七年の「水音や」の巻十一句目にも、

   祭のすゑは殿の数鑓
 見るほどの子供にことし疱瘡の跡 芭蕉

の句があり、言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』にも、

 お火焼や疱瘡したる子の数多き  入安

とある。天然痘が流行ると、その辺りの子供が次々と罹るから、疱瘡の跡の子どもはいる所にはたくさんいた。
 花見は目出度いが、子供たちがたくさん集まってくると、否が応でもかつての天然痘の爪痕が目についてしまう。

 あらけなや風車売花のとき    薄芝

 「あらけなし」は荒々しい、乱暴な、という意味。花見の名所に風車売りが来ているが、風が吹いて花よ散れと言っているみたいで乱暴な。
 「風車」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「風車(玩具)」の解説」に、

 「紙、経木(きょうぎ)、セルロイドなどでつくった車輪形のものを柄(え)の先につけ、風力で回転させる玩具(がんぐ)。古くは紙製で、中国から渡来し、平安時代には子供の遊び道具になっていた。室町時代には起きあがり小法師(こぼし)や手毬(てまり)などとともに、子供の玩具として親しまれていたことが、当時の小舞(こまい)の文句の一節などでもうかがわれる。江戸時代に入ると新春の玩具となった。1686年(貞享3)刊の『雍州府志(ようしゅうふし)』(黒川道佑(どうゆう)著)には、「京の祇園(ぎおん)町製がもとで春の初めに多くつくられる。細い竹片で小さな花輪をつくり、青紅色の紙片を花弁のように張り付ける。風が当たると花輪が転舞するので風車という。藁(わら)台に立てて売る」という意味のことを記している。」

とある。

 花にきてうつくしく成心哉    たつ

 花の下に立つと、自分が美しくなったような気分になる。バックに花があると、誰でも美しさが引き立つ。少女漫画の花を背負うようなもの。

 山あひのはなを夕日に見出したり 心苗

 山と山との間の花は目立たないが、夕陽が当たると見えるようになる。

 おもしろや理屈はなしに花の雲  越人

 花の雲は『古今集』仮名序に、

 「春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には、くもかとのみなむおぼえける。」

とあるが、人麻呂の歌に吉野の花の雲を詠んだものがないので、謎とされている。
 花に雲を詠んだものというと、

 桜花咲きにけらしなあしひきの
     山の峡より見ゆる白雲
              紀貫之(古今集)
 山高み雲居に見ゆる桜花
     心のゆきて折らぬ日ぞなき
              凡河内躬恆(古今集)

があり、吉野の花の雲を詠んだものは、

 み吉野のよしのの山の桜花
     白雲とのみ見えまかひつつ
              よみ人しらず(後撰集)

の歌がある。
 紀貫之がどのような意図で吉野の花の雲の典拠を人麿としたのかは定かでないが、まあ、そのような理屈を抜きにしても花の雲は面白い。

 なりあひやはつ花よりの物わすれ 野水

 「なりあひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「成合」の解説」に、

 「① できていてよく合うこと。完成していること。
  ※叢書本謡曲・浦島(1465頃)「木綿四手(ゆふしで)の神心、龍神も心を一つに成り合ひの、松風も吹きよせよさす汐もよせよと」
  ② (形動) なるがままであること。成り行きに任せること。そのままにしておいて手をつけないこと。また、そのさま。なりわい。
  ※浮世草子・武家義理物語(1688)一「朝にとく起て馬の沓を作りて、けふをなりあひに暮しぬ」

とある。②の方の意味であろう。
 花が咲き始めてから花見のことで頭がいっぱいで、他のこともいろいろあったが忘れてしまっていた。でもまあ何とかなるもの。

 独来て友選びけり花のやま    冬松

 花見で酒が回って来れば警戒心も薄れ気が大きくなって、知らない人が来ても「まあ、飲めや」ってなる。隣のグループと入り乱れたりして、見知らぬ人も皆友達。
 そんな状態だと一人で来ても、あちこちから「来いよ」と言われる。どこで飲むか、いくらでも選べる。

 花鳥とこけら葺ゐる尾上かな   冬文

 「こけら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「こけら」の解説」に、

 「① 材木をけずる時にできる、木の細片。木を、おのでけずった時の細片。けずりくず。木片。こっぱ。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※古今著聞集(1254)一一「只今ちりたるこけらばかりにて、前に散りつもりたるなし」
  ② 材木を薄くけずりはいだ板。槇(まき)、檜(ひのき)、椹(さわら)などの木材を、薄くけずって、板屋根などにふくもの。こけら板。木端(こば)。
  ※看聞御記‐永享五年(1433)閏七月九日「地蔵殿上葺新造以こけら葺」
  ③ 「こけらずし(鮨)」の略。
  ※俳諧・本朝文選(1706)五・銘類・飯酢銘〈吾仲〉「かの茄子たけの子の鮓といへば、何のこけらにも似かよひて、あま法師のこがれものならんに」
  [語誌](1)削ぎ落とす意味の動詞「こく(扱)」や、肉が削ぎ落ちた状態になる動詞「こく(痩)」と同源か。木の表面を削り落とした木片を指し、魚の表面を削ぎ落とすことで出る「こけら(鱗)」も同語源。
  (2)木片を意味する語は、次第に「こっぱ(木っ端)」に代わられ、「こけら」は屋根の葺板を指すことが多くなっていった。」

とある。「こけら葺き」は②の意味になる。
 尾上は山の頂上や稜線で、それを建物の屋根に見立てて、桜と鳥で葺かれている、とする。

 首出して岡の花見よ鮑とり    荷兮

 海女は海に潜るが、水面に首を出せば海辺の丘の花見ができる。

   酒のみ居たる人の絵に
 月花もなくて酒のむひとり哉   芭蕉

 独で酒を飲む人物だけが描かれた絵への画賛だろうか。
 月だと李白の「月下独酌」という詩があるし、桜だと山奥に庵を構える隠士の姿が浮かぶ。何もなしに独り飲む絵に感じた取ったのは、おそらく過去の人生の中の様々な月花を思い起こしながら飲むという場面ではなかったか。
 都での華やかだった頃は、花宴があり月見の宴もあった。そんなものを思い起こしながら、隠居して一人酒を飲む。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
             藤原定家(新古今集)

の心にも通じる。

   ある人の出家にいたりて
 樫の木のはなにかまはぬすがた哉 芭蕉

 この句は『野ざらし紀行』にも出てくる句で、貞享二年春に京の鳴滝の三井秋風の別墅を尋ねた時の句で、『野ざらし紀行』には、

 「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家(やまが)をとふ。

    梅林
 梅白し昨日や鶴を盗まれし
 樫の木の花にかまはぬ姿かな」

とある。
 この文脈だと「花」は梅の花ということになるが、この句だけを切り離して花三十句に加えれば桜の花のことになる。
 前書きも「ある人の出家にいたりて」ということで、この句は別の句になったと言ってもいい。
 樫はブナ科の常緑広葉樹で、一年中鬱蒼と茂る葉っぱは黒々とした感じがする。『去来抄』に、

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ     芭蕉

の句もある。
 また、『冬の日』の「霜月や」の巻第三に、

   冬の朝日のあはれなりけり
 樫檜山家の体を木の葉降     重五

とあり、樫の木は山家の連想をも誘う。
 永遠の命を持つ仙人のように、四季の変化と無縁で万物の春に生じて秋に止むという生死をも超越したという含みも、常緑樹にはある。
 その意味でも「花にかまわぬ」というのは、咲いては散って行く有為変転を遁れているかのようだ、という含みも持たせることができる。出家する人に贈るのにふさわしい句といえよう。

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