鶴は今では「つる」と呼ぶのが一般的だが、古代では「たづ」と呼ぶことが多く、古今集以降の和歌の言葉では「あしたづ」という住之江の芦とセットで呼ぶことが多い。
元になったのは、
和歌の浦に潮満ちくれば潟をなみ
芦辺をさして田鶴鳴きわたる
山部赤人
の『万葉集』の歌だったが、この歌が勅撰集に採用されたのは、文永二年(一二六五年)の『続古今集』とかなり遅い。おそらくこの時代の和歌に「芦田鶴」という言葉が頻繁に用いられるようになったので、その出典を勅撰集で公認する必要があったのだろう。
中世和歌は基本的には八代集までの歌人の言葉を「雅語」として使用するものだったが、それでは趣向的に行き詰ってしまうので、『万葉集』や俗歌などの言葉をそれとなく取り入れながら、マンネリを打開しようとしていたのであろう。
もちろん「芦田鶴」という言葉は『古今集』にもある。
住の江の松ほど久になりぬれば
芦田鶴の音になかぬ日はなし
兼覧王(古今集)
の歌は、今の鶴のお目出度いイメージとはかなり違う。ただ、鶴がなぜお目出度いものになったかという原因には大きくかかわっている。
キーワードは住の江の松で、ここで来ぬ人を待つ趣向は、そのまま謡曲『高砂』に直結するからだ。
法皇にし河におはしましたりける日、
つるすにたてりといふことを題にてよませたまひける
芦田鶴のたてる河辺を吹く風に
よせてかへらぬ浪かとぞ見る
紀貫之(古今集)
の歌も、兼覧王の歌同様、芦辺に立って来ぬ人を待つというテーマが仄めかされている。
芦田鶴のひとり遅れて鳴くこゑは
雲の上まて聞こえつかなむ
大江千里(古今集)
の歌は、渡りをする鶴の一羽取り残された姿とするが、芦辺の鶴の声にやはり悲しみを読み取る。
住之江の松はやがて住吉神社の雌松となり、播磨潟の尾上の松が夫だったという伝説に発展し、その尾上の松が大阪湾を渡って住吉の雌松に逢いに行き、目出度し目出度しとなるところに、謡曲『高砂』が成立する。
「高砂や、この浦船に帆をあげて、この浦船に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて早や住の江に・着きにけり早や住の江に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1887-1890). Yamatouta e books. Kindle 版.)
の謡いは長いこと結婚式の定番となった。
悲し気に鳴いていただけの芦田鶴は、やがて夫婦の仲介者になって行く。
その一方で、中世の歌人たちは、こうした悲しい情を含ませながらも、景物として芦田鶴を詠むような傾向が生じて行った。
さ夜更けて声さへ寒きあしたづは
幾重の霜か置きまさるらむ
藤原道信(新古今集)
難波潟汐干にあさる芦鶴も
月かたぶけば声の恨むる
俊恵法師(新古今集)
和歌の浦に月の出汐のさすままに
夜鳴く鶴の声ぞ悲しき
慈円(新古今集)
がその走りとなる。
この流れから、山辺赤人のあの歌の再評価の声も上がって行ったのだろう。
一方で「つる」という言葉は主に賀歌に用いられてきた。
藤原三喜の六十の賀のために詠む
鶴亀も千とせののちは知らなくに
飽かぬ心にまかせはててむ
在原滋春
この歌は、ある人は在原時春の歌ともいう。(古今集)
のように長寿の象徴として詠まれている。
『拾遺集』の賀歌には、
ある人の産してはべりける七夜
松が枝のかよへる枝をとぐらにて
巣立てらるべき鶴の雛かな
清原元輔(拾遺集)
大弐国章、孫の五十に破籠調じて歌を絵に描
かせける
松の苔千歳をかねておひ茂れ
鶴のかひこの巣とも見るへく
清原元輔(拾遺集)
のように鶴の雛や卵を詠んでいる。
鶴と亀をセットにするのは、鶴を朱雀に、亀を玄武に見立ててのこととも言うが、その起源は定かでない。北を天にして南を地とすれば、これは天地の和合、陰陽和合のシンボルになる。空を飛ぶ鶴に、水に棲む亀のセットは、花に鳴く鶯、水に棲む蛙の組み合わせにも似ている。
雲居からの鶴の飛来は天の陽気の下降になり、亀が現れるのは地の底からの陰の気の上昇となる。この二つが合わさると易でい地天泰の卦になる。天地和合、夫婦和合のお目出度い徴となる。
ちなみに陽気の下降は▽の記号で表され、陰気の上昇は△の記号で合わされ、その和合はこの二つを合わせた六芒星の形で表され、日本では「籠目」と呼ばれる。
江戸時代になると鶴は縁起物として定着し、折り紙などでも盛んに折られ、一枚の紙からたくさんの鶴を折り出すような遊びも生じた。寛政九年(一七九七年)刊の『秘伝千羽鶴折形』などが、その一つの頂点を示している。
その鶴が平和のシンボルになったのは、意外に新しい。広島市のホームページには、
「平和記念公園内ではいたる所で、色鮮やかな折り鶴が見受けられます。折り鶴は日本の伝統的な文化である折り紙の一つですが、今日では平和のシンボルと考えられ、多くの国々で平和を願って折られています。このように折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんが大きくかかわっています。
佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、9年後の小学校6年生の秋(昭和29年・1954年)に突然、病のきざしが現れ、翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院しました。回復を願って包み紙などで鶴を折り続けましたが、8か月の闘病生活の後、昭和30年(1955年)10月25日に亡くなりました。
禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにものぼります。」
とある。
来ぬ人を悲し気に待つ鶴の声から、逢うことのできたお目出度い鶴へと変わっていった日本の長い歴史と、長寿の象徴として亀とともに古くからある鶴からすると、平和の象徴としての鶴はやや異質な感じがする。むしろ発想的には願掛けであって、ミサンガに近い。
今、ウクライナへ千羽鶴を送るべきか否かの議論が巻き起こっているが、歴史を踏まえるなら、それほど長い歴史を持った習慣でもなく、連続性も疑わしい。広島長崎だけの習慣に留めても良いのではないかと思う。
あと「『蛙合』を読む」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「山吹や」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
なみださがしや首なしの池
ぬれ具足芦刈やつに剥れけん 藤匂子
合戦で死んで首を持ち去られた死体の具足は、芦刈る人が持ち去って、どこかに売るのだろう。
芦刈は和歌では芦刈小舟として用いることが多く、芦刈る人は、
霜枯れの芦刈る人の宿なれば
八重垣にして住まふなりけり
永縁(堀河百首)
が数少ない用例になる。ここでは俳諧なので、「芦刈る奴」とする。
二十六句目。
ぬれ具足芦刈やつに剥れけん
婆-靼にわたる島おろし舟 其角
婆-靼はフィリピンのバタン島で、ウィキペディアには、「1668年(寛文8年)、渥美半島沖で漂流した千石船がバタン島に漂着した。」とある。参考文献の「尾張者異國漂流物語」のところに、寛文十年(一六七〇年)九月十九日に尾張国に帰ってきたとある。
漂流先で略奪にあったことなどが、寛文の終わりから延宝の頃の話題になっていたのだろう。
二十七句目。
婆-靼にわたる島おろし舟
鳥葬にけふある明日の身ぞつらき 其角
鳥葬はチベットのものがよく知られているが、前句の異国ということで、何となくそういうのがありそうだというので出したのだろう。
バタン島で死んで鳥葬になった人を見ると、明日は我が身と思えて辛い。
日本でも古代は特定の葬送地とされる野原に打ち捨てていたから、結果的に遺体は鳥に食われるので、それも鳥葬と言えなくはない。「鳥辺野」という地名も残っている。
薪尽き雪ふりしける鳥辺野は
鶴の林の心地こそすれ
法橋忠命(後拾遺集)
はれずこそかなしかりけれ鳥部山
たちかへりつるけさの霞は
小侍従命婦(後拾遺集)
などの歌はあるが、この時代は火葬の地になっていた。
二十八句目。
鳥葬にけふある明日の身ぞつらき
寐ざめ語りをきらふ上-臈 藤匂子
「寐ざめ語り」は平安後期の物語『夜半の寝覚』のことか。書き出しに、
「人の世のさまざまなるを見聞きつもるに、なほ寝覚めの御仲らひばかり、浅からぬ契りながら、よに心づくしなる例は、ありがたくもありけるかな」
とある。
この物語に登場する中の君が「寝覚の上」とも呼ばれている。かなり過酷な運命をたどるので、この物語を好まない上臈も多かったか。
二十九句目。
寐ざめ語りをきらふ上-臈
残る月戸にきぬぎぬの歌ヲ書 藤匂子
前句を普通に、寝覚めた時の後朝に何も言いたくなくて、として、戸に後朝の歌を書き付けておく。
残る月は、
松山と契りし人はつれなくて
袖越す波に殘る月影
藤原定家(新古今集)
の歌がある。どんな波も末の松山を越すことがないと誓った人も口先だけだった。
三十句目。
残る月戸にきぬぎぬの歌ヲ書
蕣の朝粧ひ髪ゆふてやる 其角
粧ひは「よそひ」とルビがある。
『源氏物語』の朝顔には特に後朝の場面はないので、特にそれとは関係なく、朝顔の咲く朝に、帰る男の髪を結ってやり、男は戸に後朝の歌を書いて行くということで、遊郭の朝の場面か。
二裏、三十一句目。
蕣の朝粧ひ髪ゆふてやる
蜩の虚労すずしく成にけり 其角
虚労(きょらう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「虚労」の解説」に、
「① 病気などで、心身が疲労衰弱すること。また、その病気。
※菅家後集(903頃)叙意一百韻「嘔吐胸猶遂、虚労脚且」
※咄本・多和文庫本昨日は今日の物語(1614‐24頃)「ある人、きょらふして、さんざん顔色おとろへ、医者にあふ」
② 肺病。〔日葡辞書(1603‐04)〕」
とある。秋になって蜩の声も衰えて来るのを「蜩の虚労」とする。前句の朝の支度に季候を添えて流す。
蜩は、
いま来むと言ひて別れし朝より
思ひくらしの音のみぞなく
僧正遍照(古今集)
秋風の草葉そよぎて吹くなへに
ほのかにしつるひくらしのこゑ
よみ人しらず(後撰集)
など、古くから歌に詠まれている。
三十二句目。
蜩の虚労すずしく成にけり
雨母親の留守を慰む 藤匂子
一人家に残された母は日頃の疲れを癒し、雨上がりの夕暮れの蜩の声の涼しさに癒される。
雨の蜩は、
小萩咲く山の夕影雨過ぎて
名残の露に蜩ぞ鳴く
藤原良経(夫木抄)
の歌がある。
三十三句目。
雨母親の留守を慰む
烟らせて男の立テ茶水くさし 藤匂子
母親の留守に男が自分で立てた茶は、雨で湿った薪で煙たい上に水っぽい。
三十四句目。
烟らせて男の立テ茶水くさし
入あひ迄を借ス座敷かな 其角
昼の座敷を借りて男たちが集まって、そこでお茶を立てたりしたのだろう。男ばかりというと俳諧の集まりか。
三十五句目。
入あひ迄を借ス座敷かな
蝶-居-士が花の衾に夢ちりて 其角
蝶居士はここでは人間ではなく、死んだ蝶のことであろう。蝶の死骸のうえに散った桜の花びらが積もり、その様がさながら花の衾(ふすま)のようだ。
衾はウィキペディアに、
「衾(ふすま)は平安時代などに用いられた古典的な寝具の一種。長方形の一枚の布地で現在の掛け布団のように就寝時に体にかけて用いるため、後世の掛け布団も衾と呼ぶことがある。」
とある。
前句を花見の座敷とする。昔は夜になると真っ暗になるので、花見は昼間するものだった。
挙句。
蝶-居-士が花の衾に夢ちりて
仏にけがす茎立の露 藤匂子
茎立(くくたち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「茎立」の解説」に、
「① スズナやアブラナなどの野菜。また、それらの薹(とう)。くくたちな。くきたち。くきたちな。《季・春》
※万葉(8C後)一四・三四〇六「上毛野佐野の九久多知(ククタチ)折りはやし吾れは待たむゑ今年来ずとも」
※古今著聞集(1254)一八「くくたちをまへにてゆでけるに」
② (━する) 芽や茎などがのびること。薹(とう)がたつこと。
※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「切口より葉生出、いく度も茎立(ククタチ)して、春に至りても尽ずといふ」
[補注]ククは、ククミラ(=韮(ミラ))のククと同様に、クキ(茎)の被覆形。」
とある。スズナやアブラナの薹(とう)というと菜の花のことではないかと思う。
菜の花の露が泥を濡らし、仏となった蝶の死骸を汚して行く。
蝶というと胡蝶の夢という『荘子』の言葉もあり、きっと何かに転生してまた生まれてくるのであろう。悲しむなかれ、ということか。
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