2022年4月23日土曜日

 Apple Musicのニュー・ミュージック・ミックスににТінь Сонця(ティン・ソンチャ)の「Новий світанок (feat. Юрій Руф) 」が入っていた。グーグル翻訳だとタイトルは「新しい夜明け」だそうだ。
 四月一日にドンパスのルハンシク方面で戦死したウクライナの詩人「ユーリー・ルフ」の最後の投稿を歌にした曲だという。
 夜明け前の空、暗がりの中の錆色の地平線で空が燃え上がり、雲の裂け目が顕わになる。また、尾を曳いた光る飛翔体が空を横切って行く。
 仲間たちの寝静まる中、春もまだ凍える寒さの中で紡ぎ出された言葉は、残念ながらグーグル先生の翻訳でも意味は掴みにくい。
 ユーリー・ルフさんは初めて聞いた名前だし、日本語版のウィキペディアにその項目はまだないけど、でもルフさんが見ることのできなかった夜明けを、いつか世界中の人が見られることを祈ろう。いつか見よう焼けた高炉の朝霞。
 今日は等覚院のツツジを見に行った。今でこそツツジは奇麗に刈り込まれていろんな色の花が楽しめるが、古典の世界では山の岩場に自生するツツジだったんだろうな。美しい庭園の景色も、長い歴史の積み重ねがあってのものだ。
 国を守るというのは、それを守ることなんだ。今日撮影の写真。


 それでは「山吹や」の巻の続き。

 十三句目。

   小袖をさらす凉店の風
 夕闌て官女の相撲めし給ふ    藤匂子

 「闌て」は「たけて」で宴もたけなわというときの「たけ」。
 裸の男たちが体をぶつけあう相撲は官女たちの楽しみ。前句をその情景とする。
 十四句目。

   夕闌て官女の相撲めし給ふ
 夭-盞七ツ星をちかひし      其角

 夭は若いという意味で、力士の若者が盃を取って、白星を七つ上げることを誓う。
 十五句目。

   夭-盞七ツ星をちかひし
 月兮月兮西瓜に剣を曲ケル    其角

 月兮には「つきなれや」とルビがある。兮は漢詩の調子を整えるための言葉で、上古では「ヘイ」と発音していた。「月が出たぜhey!」といったところか。
 前句を若い武将の北斗星への誓いとし、月夜の宴に西瓜を剣を刺して謡い舞う。
 北斗星は天を指すということで、俺は皇帝になるぞ、といったところか。三国志的な乗りだ。
 十六句目。

   月兮月兮西瓜に剣を曲ケル
 弓張角豆野に芋ヲ射ル      藤匂子

 三日月のことを弓張り月というところから、剣舞の横では弓で芋を射って、その腕前をアピールしている。
 「角豆」は「大角豆」のことで「ささげ」であろう。弓を張り捧げ、と掛けて用いる。
 十七句目。

   弓張角豆野に芋ヲ射ル
 里がくれおのれ紙子のかかしニて 藤匂子

 芋を射ているのは、そういう格好をした案山子だった。紙子のを着て弓を以て、ささげの畑に立つ。
 十八句目。

   里がくれおのれ紙子のかかしニて
 なじみは離ぬ雪の吉原      其角

 「離ぬ」は「かれぬ」と読む。雪の吉原でなじみ客も来ない。
 案山子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説」に、

 「① (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く。おどし。
  ② (①から転じて) 竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。田畑などに立てて人がいるように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの。かがせ。そおず。かかし法師。《季・秋》
  ※虎寛本狂言・瓜盗人(室町末‐近世初)「かかしをもこしらへ、垣をも念の入てゆふて置うと存る」
  ※俳諧・猿蓑(1691)三「物の音ひとりたふるる案山子哉〈凡兆〉」
  ③ 見かけばかりで、地位に相当した働きをしない人。つまらない人間。見かけだおし。
  ※雑俳・初桜(1729)「島原で年迄取った此案山子」

とあり、ここでは③の意味に取り成される。なじみ客は格好だけの男で「おのれ」を罵る時の言葉とする。
 二表、十九句目。

   なじみは離ぬ雪の吉原
 米の礼暮待文にいはせけり    其角

 「暮待文」は「暮れ待つ文」か。年の暮れになって米の礼状が来た。
 二十句目。

   米の礼暮待文にいはせけり
 初木がらしを餝ルしだ寺     藤匂子

 餝ルは「かざる」。しだ寺は歯朶の生い茂る寺ということか。苔寺は有名だが。
 二十一句目。

   初木がらしを餝ルしだ寺
 暁の閼伽の若水おとかへて    藤匂子

 閼伽は仏に捧げる水。
 若水は古代は立春の日の朝に汲む水で、

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
     春立つけふの風やとくらむ
              紀貫之(古今集)

の歌も若水を詠んだものであろう。
 江戸時代では正月の朝に正月行事を司る年男(今のようなその年の干支の男という意味はない)が汲むものだった。『阿羅野』に、

 わか水や凡千年のつるべ縄    風鈴軒

の句があるところから、普通に井戸で汲んでいたようだ。
 毎朝閼伽水(あかみづ)を汲む歯朶寺では、正月になるとその水が「若水(わかみづ)」と若干音を変える。
 外は寒くていまだに木枯らしが吹いているが、正月に吹く木枯らしは初木枯らしだ。
 二十二句目。

   暁の閼伽の若水おとかへて
 崫も餅はかびけりの春      其角

 前句の閼伽水を若水に変える僧を、岩窟に籠る修行僧とする。湿っぽい岩窟では餅もすぐにカビが生える。
 二十三句目。

   崫も餅はかびけりの春
 猟師をいざなふ女あとふかく   其角

 猟師を「れふし」と読むと字足らずだから、「かりびと」か「かりうど」だろう。
 その猟師を岩窟に誘う女は普通の女ではなさそうだ。人外さんか。
 「あとふかく」は女のあとをついて行って奥深くへということか。
 二十四句目。

   猟師をいざなふ女あとふかく
 なみださがしや首なしの池    藤匂子

 首無し死体の沈んでいる池があって、首がどこへ行ったか涙ながらに探す。前句は猟師に首の捜索を頼むということになる。
 今のところそれしか思いつかない。何か出典があるのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿