2022年4月7日木曜日

 哲学はたかだか人間が作り出したものにすぎないから、実際にはそんな難しい問題なんてないんだと思う。
 生きとし生けるものはみな、四十億年の昔から生存競争を繰り返し、そこには平等なんてものは一度もなかった。多分五百万年位前に人へ向けて進化し始めた類人猿の一群が、多人数で掛かればどんな強いものでも倒せることを知ってしまった日から、出る杭は打たれる状態に陥り、それが平等の夢を生み出した。
 基本的には食料であれ恋人であれ、自分よりも上がいるのが気に入らないとなれば、みんなでてっぺんにいるものを引きずり下ろすことができる。欲望と嫉妬。それが「平等であるべき」という理想を生み出した。
 人間の世界の平等というのは、そういった恨みつらみ妬み嫉みなどのどろどろした感情の中で、陰湿な争いを繰り返す中で、いつか美化され、崇高な理念になっていった。
 哲学はこうした中で傷ついた心の痛みの中で生まれる。いつ生まれたというのでもなく、常に生まれ続け、再生産される。だから真理はいつでも心の痛みとそこから逃れたいと思う心の中にある。すべて基本にあるのは恨みだ。
 誰だって幸せになりたい。でもあいつの幸せは許せない。すべての矛盾の根底はそこにある。だから、人生の矛盾に悩んだ時は、この原点に戻って、自分が受けた屈辱とその時の心の痛みを思い出すと良い。その原点に立って、思い出すんだ、自由なんだと。これまで築き上げてきたものがすべてではないんだと。
 どんな深遠な哲学も、行く着く所がどんなに違っていても、始まりは同じだった。あの時の心の痛みから始まった。
 法的平等は可能だから、権利における平等は可能。ただ、幸福は計量化できないどころか、他人がどの程度幸福なのか正確に推定することができない以上、他人との比較は無意味。それゆえ実質的平等は不可能。あとは個別の生存の取引で、ほどほどの所で満足する以外にない。

 さて、連歌も雅語の問題はなかなか奥が深くて面白いが、俗語の俳諧に戻ることにする。
 次に読むのは『炭俵』の嵐雪・利牛・野坡の三吟歌仙で、嵐雪も何とか葛の葉の面を見せて、今回の入集になったのだろう。
 元禄六年一月に芭蕉は嵐雪との両吟「蒟蒻に」の巻で対座しているが、この両吟の三十五句目に珍碩の句がある辺り、芭蕉に駄目出しされて三十四句で終了したのだろう。この一巻はそれより後で、元禄七年の春か。
 発句は、

 兼好も莚織けり花ざかり      嵐雪

で、『徒然草』で有名な兼好法師が花見をするなら、きっと世俗のような派手な花見ではなく、自分一人座れるような筵を自分で織って花見をするのではないか、という句で、兼好の名はあっても特に出典にもたれていない、軽みの句といえよう。
 兼好というと『徒然草』一三七段の、

 「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」

の言葉も有名なようで、これは花は咲き初めから散り終わるまで、すべて風情があるというもので、別に花見に対してアンチなわけではない。
 寓意を強いて言うなら、兼好法師に倣って、三人だけで静かな花見でもしましょうか、といったところか。
 これより百年後の寛政の頃に出版された『摂津名所図会』の東成郡のところに、

 「吉田の兼好法師は乱をさけて阿閇野の命帰丸が故郷に寄り、莚を織りて業を扶くるは」

とあるから、何らかの形でこれに類する伝説も知られていたのだろう。阿閇野は大阪の阿倍野で、今はハルカスがあるが、昔は名前の通り野原だった。
 脇。

   兼好も莚織けり花ざかり
 あざみや苣に雀鮨もる       利牛

 雀鮨はコトバンクの「デジタル大辞泉「雀鮨」の解説」に、

 「小鯛(こだい)を背開きにして、腹に鮨飯を詰めた鮨。もとは江鮒(えぶな)を用いた。大阪・和歌山の名物。形が雀のようにふくれているのでいう。《季 夏》「蓼たでの葉を此君と申せ—/蕪村」

 舞台が大阪の阿倍野ということで雀鮨を出す。苣(ちさ)はレタスのことで、今で言うとサンチュに近いものか。アザミも若芽は食用になる。
 雀鮨を食器を使わずにアザミやチサの葉に盛るというのが、昔っぽい風流を感じさせる。
 第三。

   あざみや苣に雀鮨もる
 片道は春の小坂のかたまりて    野坡

 坂道を行くと荷物が片寄って、アザミやチサの中に雀鮨が混ざってしまったということか。弁当箱などでよくある現象だ。
 四句目。

   片道は春の小坂のかたまりて
 外をざまくに囲う相撲場      嵐雪

 ざまくはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ざまく」の解説」に、

 「① 異質なものがはいり込んでいて、それがじゃまであるさま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② (人が)不注意でだらしないさま。(動作、仕事が)ぞんざいなさま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・炭俵(1694)上「片道は春の小坂のかたまりて〈野坡〉 外をざまくに囲ふ相撲場〈嵐雪〉」

とある。
 相撲は秋の季語で秋のものだが、春にも行われることはあったのだろう。坂道を突き固めて外側をざっと覆っただけの相撲場は、何やら怪しげな感じもする。土俵が傾いていたりしたら上の方が有利になる。
 五句目。

   外をざまくに囲う相撲場
 細々と朔日ごろの宵の月      利牛

 朔日ごろの月は厳密に朔日ということではなく、二日か三日の月をいう。満月の日の相撲がメインで、二日三日は前座というか、会場の設営も雑だったのだろう。
 六句目。

   細々と朔日ごろの宵の月
 早稲も晩稲も相生に出る      野坡

 旧暦八月の一日頃は、早稲は既に刈り取られた跡から新芽が生え、晩稲はまだ伸びていない。二つの田んぼが隣り合っていると、どっちがどっちかよくわからない。
 この時間差をうまく利用すると米の二期作ができる。
 初裏、七句目。

   早稲も晩稲も相生に出る
 泥染を長き流れにのばすらん    嵐雪

 泥染(どろぞめ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「泥染」の解説」に、

 「〘名〙 媒染に鉄分のある泥に漬けて染める染色法。染料によって黒褐色、黒色などに発色する。大島紬・黒の八丈縞・五日市の黒八丈などがこの染色法を用いる。
  ※随筆・遠碧軒記(1675)下「今のどろぞめなどと云の色にて、ねずみ色の少しこきやうなものなり」

とある。
 前句を温暖な地として、奄美大島の大島紬としたか。
 八句目。

   泥染を長き流れにのばすらん
 あちこちすれば昼のかねうつ    利牛

 昼の鐘はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「昼鐘」の解説」に、

 「〘名〙 昼間に鳴らす鐘。また、午(ひる)を告げ知らせる鐘や鐘の音。
  ※俳諧・小柑子(1703)下「昼鉦やのどかにわたる栄の中〈一貞〉」

とある。
 高価で粋な泥染めの紬も、吉原から隅田川を下ってあちこち寄り道して帰れば昼になる。
 九句目。

   あちこちすれば昼のかねうつ
 隣から節々嫁を呼に来る      野坡

 嫁が芝居でも見に行ってしまったか。隣の主人が探しに来る。夫は夜遊び、妻は昼遊ぶ。
 十句目。

   隣から節々嫁を呼に来る
 てうてうしくも誉るかいわり    嵐雪

 「かいわり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「貝割・卵割」の解説」に、

 「① (「かい」は卵の意) 卵の殻を割って雛がかえること。また、殻を割って生まれたばかりの意から転じて、なりたて、未熟の意にいう。
  ※洒落本・真女意題(1781)自序「何を申も作者の新米。〈略〉究らぬ処も多かるべし。そこが作りの卵割(カイワリ)と」
  ② =かいわりな(貝割菜)《季・秋》 〔改正増補和英語林集成(1886)〕
  ③ 袖口の形の一つ。袖口を真中で括って上下を卵の殻を二つに割った形に分けたものをいうか。
  ※俳諧・流川集(1693)「爪にかかりて抜る魚の目〈露川〉 かいわりの袖しほらしき辻か花〈素覧〉」
  ④ 帯の結び方の一つ。卵の殻を二つに割った形に結んだものをいうか。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「隣から節節嫁を呼に来る〈野坡〉 てうてうしくも誉(ほむ)るかいわり〈嵐雪〉」
  ⑤ アジ科の海魚。全長三〇センチメートルに達し、体は著しく側扁した卵円形。体色は背部が青緑色で、腹部は銀白色。第二背びれと尻びれに黒褐色の縦走帯がある。本州の金華山、能登半島以南に分布する。食用とし、美味。ひらあじ。」

とある。④の意味になる。
 婚礼衣装か。なかなか準備が整わない。
 十一句目。

   てうてうしくも誉るかいわり
 黒谷のくちは岡崎聖護院      利牛

 京の黒谷は金戒光明寺のある辺りで、京都市街から行くとその手前に聖護院がある。聖護院大根が有名で、前句の「かいわり」をそこのカイワレ大根とする。この時代は周りは畑だった。
 十二句目。

   黒谷のくちは岡崎聖護院
 五百のかけを二度に取けり     野坡

 掛売の金は通常盆と大晦日に取りに来る。岡崎聖護院との関係がよくわからない。岡崎に非田院があったことと関係があるのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿