ルペンさんはロシアのことがなければ勝っていたのか、日本人的にはそういう感覚になるが、フランス人のことはよくわからない。
日本の右翼は北方領土とシベリア抑留のことがあるから、大体元からロシア大っ嫌いというのが多いけどね。八月九日は反ソデーといって、毎年右翼の街宣車が行進したりしてたけど、今年は盛り上がるんじゃないかな。今は反ロデーというのか。
まあ、左翼の連中があたかも右翼が親ロシアであるような印象操作をしようとしているけど、日本では無理筋だ。
西洋の右翼は案外親ロシアが多かったりするのかな。だとすると西洋人はころっと騙されてくれるかもな。まあ、日本だけでなく海外の人権派の人たちが、neto-uyoという実態のない藁人形叩きに熱中してくれれば、日本の右翼は安泰だ。
その左翼、今は維新叩きに熱中してるから、まあ自民党も参院選は楽勝だな。
それとあの知床の事故で思ったんだけど、日本で会社の社長になろうという人は、大体はどことなくアウトローで、強靭な意志の強さでもって、少なからず人を脅して従わせるタイプの人が多いと思う。
そういう人というのは、自分が理不尽な命令を受けたり、無茶な取引を持ち掛けられても、相手がだれであろうと頑として跳ね返す力があるんだ。だから親分として君臨できる。
そういう人は、部下も同じように、無茶を言われてたら当然刃向かってくると思っている。自分だったらそうするから、人もそうするはずだと思う。
ところが、凡庸な人間はとてもじゃないけど刃向かえない。無理だとわかっても引き受けてしまう。そこでああいう事故が起こるんじゃないかと思う。
刃向かってこないから、納得してると思い込んでいる。ロシアのあの人もそういう所があるんじゃないかな。
昨日の続きで鶴と亀が出た所で籠目歌の考察になるが、あれは夜這いの歌ではなかったか。
かごめかごめ
籠の中の鳥はいついつ出会う
の籠の鳥は、大切に育てられて世間から隔絶された女性の象徴で、
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
は陰陽和合の象徴になる。おそらく「鶴と亀が統べった」であろう。陰陽和合は陰気の上昇の△と陽気の下降の▽を合わせて、六芒星の籠目のマークになる。そこで、
後ろの正面だーれ
というのは、密かに通ってきて後ろ正面(真後ろ)に立っているのは誰だ、という意味になる。夜這いの犯人捜しの歌だ。
さて、それでは春の俳諧の続きで、『続虚栗』(其角編、貞享四年刊)から、「川尽て」の巻を行って見ようと思う。
発句は、
川尽て鱅流るるさくら哉 露沾
鱅はここではカジカとルビがふってある。多分元は日本にいない魚の字だったのか、他にもハクレン、コノシロ、ハマギギ、ダボハゼ、チチカブリ(ウキゴリ)などの読み方がある。
「尽くす」という言葉は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「尽・竭・殫」の解説」に、
「① つきるようにする。
(イ) なくする。終わりにする。
※万葉(8C後)一一・二四四二「大土は採りつくすとも世の中の尽(つくし)得ぬ物は恋にしありけり」
※地蔵十輪経元慶七年点(883)四「我等が命を尽(ツクサ)むと欲(おも)ひてするにあらずあらむや」
(ロ) あるかぎり出す。全部出しきる。つきるまでする。
※万葉(8C後)四・六九二「うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽(つくさ)く思へば」
※源氏(1001‐14頃)桐壺「鈴虫の声のかぎりをつくしてもながき夜あかずふるなみだ哉」
② その極まで達する。できるかぎりする。きわめる。
※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)五「永く苦海を竭(ツクシ)て罪を消除し」
※春窓綺話(1884)〈高田早苗・坪内逍遙・天野為之訳〉一「凞々たる歓楽を罄(ツ)くさんが為めのみ」
③ (動詞の連用形に付いて) 十分にする、すっかりする、余すところなくするの意を添える。「言いつくす」「書きつくす」など。
※日葡辞書(1603‐04)「Yomi(ヨミ) tçucusu(ツクス)。モノヲ cuitçucusu(クイツクス)」
※日本読本(1887)〈新保磐次〉五「マッチの焔を石油の中に落したるが、忽満室の火となり、遂にその町を類焼し尽しぬ」
④ (「力を尽くす」などを略した表現で) 他のもののために働く。人のために力を出す。
※真善美日本人(1891)〈三宅雪嶺〉国民論派〈陸実〉「個人が国家に対して竭すべきの義務あるが如く」
⑤ (「意を尽くす」などを略した表現で) 十分に表現する。くわしく述べる。
※浄瑠璃・傾城反魂香(1708頃)中「口でさへつくされぬ筆には中々まはらぬと」
⑥ 心をよせる。熱をあげる。
※浮世草子・傾城歌三味線(1732)二「地の女中にはしゃれたる奥様、旦那様のつくさるる相肩の太夫がな、見にござるであらふと」
⑦ (「あんだらつくす」「阿呆(あほう)をつくす」「馬鹿をつくす」などの略から) 「言う」「する」の意の俗語となる。
(イ) 「言う」をののしっていう語。ぬかす。ほざく。〔評判記・色道大鏡(1678)〕
※洒落本・色深睡夢(1826)下「大(おほ)ふうな事、つくしやがって」
(ロ) 「する」をののしっていう語。しやがる。しくさる。
※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)上「起請をとりかはすからは偽りは申さないと存じ、つくす程にける程に」
とある。この場合は③の意味で、美味なカジカが獲れて桜の花びらも流れてきて、川の面白さもここに極まる、というところだろう。
脇。
川尽て鱅流るるさくら哉
黄精ある峡の日の影 其角
黄精は「あまところ」とルビがある。アマドコロ(甘野老)のことで、ウィキペディアには、
「アマドコロ(甘野老、学名: Polygonatum odoratum)は、キジカクシ科アマドコロ属の多年草。狭義にはその一変種 P. o. var. pluriflorum。日当たりのよい山野に生え、草丈50センチメートル前後で、長楕円形の葉を左右に互生する。春に、葉の付け根からつぼ形の白い花を垂れ下げて咲かせる。食用や薬用にもされる。変種に大型のヤマアマドコロ、オオアマドコロがある。」
とある。野老(トコロ)に似てるが甘みがあり、春は若芽を食用にする。
発句の「川尽て」の応じて、カジカに桜に更にアマドコロと谷に射しこむ日の光りを付ける。至れり尽くせりだ。
第三。
黄精ある峡の日の影
春を問童衣冠をしらずして 沾徳
「はるをとふわらはいかんを」であろう。衣冠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衣冠」の解説」に、
「① 衣服と冠(かんむり)。
※続日本紀‐養老六年(722)一一月丙戌「敬二事衣冠一終身之憂永結」
※文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉一「衣冠美麗なりと雖ども、衙門巍々たりと雖ども、安ぞ人の眼を眩惑するを得ん」 〔論語‐堯曰〕
② 衣冠をつけている人。高貴な人。天子、皇帝に仕えている人。〔李白‐登金陵鳳凰台詩〕
③ 平安中期から着用した装束の名称。束帯よりも略式の装束で、下襲(したがさね)および石帯(せきたい)を着けず、表袴(うえのはかま)、大口もはかないので、裾は引かない。冠をかぶり、縫腋(ほうえき)の袍(ほう)を着、指貫(さしぬき)をはくのがふつう。はじめは宿直装束(とのいそうぞく)として用いられたが、参朝などの時にも着用されるようになった。
※大鏡(12C前)六「布衣、衣冠なる御前のしたるくるまのいみじく人はらひなべてならぬいきほひなるくれば」
とある。
そのままの意味だと山中に棲む童は高貴な人の衣装を知らない、ということだが、それだけなのか、何か出典があるのか。「あま」の日の光りに、天子様の縁で付けたか。
四句目。
春を問童衣冠をしらずして
壁なき間屋に残る白雪 露荷
問屋(といや)ではなく「間屋」なので、「まや」だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「真屋・両下」の解説」に、
「① 切妻造りのこと。「ま」は両方、「や」は「屋根」の意とする説と、神社建築がすべて切妻造りであるところからも、仏教建築渡来以前は切妻造りが上等な建物に用いられたため、「真(ま)」の意とする説とがある。⇔片流れ。→真屋の余り。
※尊勝院文書‐天平勝宝七年(755)五月三日・越前国使等解「草葺真屋一間〈長二丈三尺 広一丈六尺〉」
② 四方へ屋根が傾斜するように建てた家。寄せ棟(むね)づくりに建てた家。あずまや。また、屋根と柱だけの小さい家。〔名語記(1275)〕
③ 別棟などに対して、主となる家屋をいう。〔改正増補和英語林集成(1886)〕」
とある。②の「屋根と柱だけの小さいら」なた「壁なき間屋」と一致する。牧童のような童形の職業の人の作業小屋であろう。高貴な人とは縁がない。
五句目。
壁なき間屋に残る白雪
月冴て砧の槌のつめたしや 嵐雪
「月冴て」は冬月になる。
月さゆる氷のうへにあられふり
心くだくる玉川のさと
藤原俊成(千載集)
の歌は冬に分類されている。
月に砧は、
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
による。
六句目。
月冴て砧の槌のつめたしや
人は風ひくね覚ならまし 虗谷
寒い冬の夜に砧を打っていると風邪をひく。
初裏、七句目。
人は風ひくね覚ならまし
傾城の淋しがる顔あはれ也 其角
風邪で訪ねていけないとなると吉原の傾城も寂しがる。多分紋日であろう。この日は遊女は客を取らなくてはならないから、普段からなじみ客に声をかけて確保しておく。それが風邪でドタキャンになると結構困る。
八句目。
傾城の淋しがる顔あはれ也
初秋半恋はてぬ身を 露沾
「半」は「なかば」。初秋の半ばはお盆のころ。お盆は遊郭も静かになったか。
九句目。
初秋半恋はてぬ身を
蛬歯落て小哥ふるへけり 露荷
蛬は「きりぎりす」とルビがある。コオロギのこと。
初秋のコオロギの淋しげな声が、歯が抜けても昔の遊郭通いが忘れられずに唄う爺さんの小唄のようだ。弄斎節だろうか。
秋風の吹きくるよひは蛬
草のねごとにこゑみだれけり
紀貫之(後撰集)
の歌の心か。
十句目。
蛬歯落て小哥ふるへけり
楼おりかぬる暁の雁 沾徳
楼は妓楼だろうか。歯が抜けても生涯遊郭で過ごす老いた遊女とする。秋に飛来した雁が地面に降りられないような宙ぶらりんな状態だ。
十一句目。
楼おりかぬる暁の雁
鼓うつ田中の月夜悲しくて 虗谷
刈ったばかりの田んぼの真ん中で鼓を打って、月見のどんちゃん騒ぎをしている人がいるので、明け方になっても飛来した雁は地面に降り立つことができず、高い楼の上にいる。
十二句目。
鼓うつ田中の月夜悲しくて
侘てはすがる僧の振袖 嵐雪
「僧の振袖」がよくわからないが、昔は元服前には男女とも振袖を着ていた。僧に仕える稚児のことか。
田中の寺で、僧は鼓を打っては慰めるが、それでも悲しくも侘しくて、稚児が僧にすがりつく。
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