2022年5月16日月曜日

 まあ、出る杭は打たれるというのは世の常だからね。目立たないに越したことはない。日本文明の復興も水面下からじわじわとというのが理想的だ。
 左翼連中の攻撃をかわすには、象徴にならないということが大事だ。一つ象徴を作り上げると、そこを集中的に攻めてくる。だから、偽の象徴を作って叩かせるのが一番いい。「ネトウヨ」という言葉もその意味では役に立っている。
 反日的なメッセージというのは、基本的に日本以外の国ならどこでも受けがいい。だから奴らはそれを積極的に利用して、如何に日本を貶めるかに日々切磋琢磨している。ただ、奴らが叩いてるのは藁人形だ。偽物の日本だ。
 他の国でもこのことは言えると思う。アメリカが失敗したのはトランプさんという象徴を作ってしまったからだ。だが、それは藁人形だから、それを逆手に取って、トランプさんにヘイトを集めさせるというのも一つの手だ。日本でも安倍さんがヘイトを一気に引き受けてくれてるから、かえって保守派の人はやりやすくなっている。
 友橋かめつさんの『その門番、最強につき~追放された防御力9999の戦士』ではないが、敵のヘイトを一人に集中させれば、敵の防御はがら空きだ。
 逆に言えば、ウクライナを助けるのであれば、プーちん一人にヘイトを集中させるやり方は賢いとは言えない。ロシア人のある程度はこの戦争を支持しているし、独裁国家は他にもあるし、今は沈黙してても独裁を支持する連中はどこの国にでもいる。油断のないように。
 今日は旧暦四月十六日で満月だが、朝から雨だった。
 ラジオでは今日が芭蕉が『奥の細道』に旅立った日だと言っている。
 そういうわけで「こよみのページ」で調べてみると、元禄二年三月二十七日は新暦五月十六日になっている。この年は一月潤があったので、三月がやけに遅い。

 さて、夏の俳諧の方は、もう一つの「郭公」の巻、「郭公(来)」の巻を読んでみようと思う。
 松意編延宝三年刊の『談林十百韻(とっぴゃくいん)』は春に第一、第二、第三百韻を読んだので、その続きということで、第四百韻を読んでいこうと思う。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)を参考に。
 発句は、

 郭公来べき宵也頭痛持      在色

 郭公は和歌では明け方に詠むことが多く、宵というと、

 宵の間はまどろみなましほととぎす
     明けて来鳴くとかねて知りせば
              橘資成(後拾遺集)
 ほととぎす来鳴かぬ宵のしるからば
     寝る夜もひとよあらましものを
              能因法師(後拾遺集)

など、宵には鳴かないということが詠まれている。
 ただ、『千載集』の頃になると、

 心をぞつくしはてつる郭公
     ほのめく宵の村雨の空
              藤原長方(千載集)
 声はして雲路にむせぶ時鳥
     涙やそそぐ宵の村雨
              式子内親王(新古今集)

など、宵の村雨のホトトギスを詠む歌が登場する。
 頭痛はロート製薬のサイトによると、

 「気象病の症状の中でも最も多いのが頭痛です。どのように傷みが起こるかをお話しましょう。
 漢方医学では、気象病の多くは【水毒(すいどく)】だと考えられています。水毒とは、汗やリンパ液など、体液の循環が悪くなった状態のこと。
 頭痛は、血液に水分が溜まって血管が拡張し、神経を圧迫することで起こります。湿度が高く汗をかきにくくなる梅雨は、特に頭痛が起こりやすくなります。
 気象の影響で起こる頭痛としては、まず片頭痛が挙げられます。ズキズキと脈打つように痛むのが特徴で、“片”頭痛という名前の通り、多くの場合が頭の片側だけに起こります(両側に起こることもあります)。
 中には、緊張型頭痛が現れる人もいます。頭がぎゅーっと締めつけられるような痛みが特徴。ただ、この頭痛は血管が拡張して起こるものではなく、後頭部や首の後ろ側の筋肉が収縮することが原因。同じ頭痛でも、気圧の変化によって血管に影響を受ける人、筋肉に影響を受ける人がいるということ。それぞれの自律神経の“バランスの乱れ方”が違うのです。」

ということで、五月雨の頃は頭痛の季節で、雨が降る前に頭痛がする人もいるという。
 そういう人からすると、頭痛がすればホトトギスの季節だ、ということになる。
 脇。

   郭公来べき宵也頭痛持
 高まくらにて夏山の月      松意

 緊張型頭痛の場合は、枕が合ってないことも原因の一つになる。前句の頭痛の原因を高枕のせいとして、夏山で高枕をして宵に眠りにつき、頭痛ながらに明け方のホトトギスの声を聞く。
 郭公に夏山の月は、

 時鳥鳴きているさの山の端は
     月ゆゑよりも恨めしきかな
              藤原頼実(新古今集)
 有明の月は待たぬに出でぬれど
     なほ山深き時鳥かな
              平親宗(新古今集)

などの歌がある。
 第三。

   高まくらにて夏山の月
 凉風や一句のよせい吟ずらん   正友

 高枕で夏山の月に涼んで、その涼しい風の余情を吟じているのだろうか。吟じると言っても高枕だから、鼾のことではないか。
 夏の月に涼風は、
 
 夏の夜の有明の月を見るほどに
     秋をもまたで風ぞすずしき
              藤原師通(後拾遺集)

の歌がある。
 四句目。

   凉風や一句のよせい吟ずらん
 旅乗物のゆくすゑの空      松臼

 旅乗物はこの時代なら馬か駕籠であろう。涼しいのは馬の方か。
 朝早く馬で旅立ち、明け方の涼しい風を受けながら、一句の余情を吟ずる。旅体に転じる。

 月影のいりぬるあとにおもふかな
     まよはむやみのゆくすゑの空
              慈円(千載集)

を余情とするか。
 五句目。

   旅乗物のゆくすゑの空
 うき雲や烟をかづくたばこ盆   志計

 浮雲の煙は、

 恋わびてながむる空の浮雲や
     わが下もえの煙なるらん
              周防内侍(金葉集)

の歌がある。ここでは旅の空の浮雲が実は煙草の烟だったという落ちになる。
 旅の雲といえば杜甫の「野老」という詩に、「長路關心悲劍閣 片雲何意傍琴台」とあり、後に芭蕉が『奥の細道』の冒頭で「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて」という一節に用いている。
 六句目。

   うき雲や烟をかづくたばこ盆
 時雨をまぜて亭に手たたく    雪柴

 亭を「ちん」と読む場合はお茶室であろう。煙草盆は茶道のお茶室に入る前の待合に用いられる。
 手を叩くのは時雨で煙草の火が消えて、「煙草盆、はよ」ってことか。
 浮雲の時雨は、

 折こそあれながめにかかる浮雲の
     袖もひとつにうちしぐれつつ
              二條院讃岐(新古今集)

の歌がある。
 七句目。

   時雨をまぜて亭に手たたく
 欄干もあらしにうごく大笑    一鉄

 前句の「手をたたく」を誰か何か面白いことを言って、思わず手を叩くこととする。お茶会の前の談笑ではそんなこともあるか。
 時雨の嵐は、

 しぐれつつかつ散る山のもみぢ葉を
     いかに吹く夜の嵐なるらん
              藤原顕季(金葉集)

の歌がある。
 八句目。

   欄干もあらしにうごく大笑
 酒酔をくるあとのしら波     一朝

 酒を酌み交わした後、船で旅立つ人を橋の欄干から見送る。
 酒が入っているから、何がおかしいか大笑いして、言ってしまったあとは「知らない」に「白波」を掛ける。見知らぬ人同士で酒を飲んで盛り上がるのはよくあることだ。
 嵐に白波は、

 見わたせば汐風荒らし姫島や
     小松がうれにかかる白波
              宗尊親王(続古今集)

の歌がある。

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