2022年5月26日木曜日

  侵略戦争に一つでもやったもん勝ちの前例を作ってしまったら、必ず真似する国が出てくる。世界はふたたび戦乱の時代となり、戦争が日常化する。ウクライナ戦争で領土の妥協は絶対にしてはならない。世界の国が力を合わせて取り戻す必要がある。


 「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─惨」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。
 いざ原稿を手直ししようとすると、こんなに入力ミスが多かったのかと、改めて恥ずかしくなる。次の明石から関屋までは訳し終わっているので、ここで一区切りとして、この俳話も平常運転に戻そうかと思う。
 源氏の文章は誰の台詞かわかりにくいので、ちょっと大袈裟にキャラを作って、癖をつけてみている。

 多産多死社会での掟は任意なもので、文化が違えば掟も違う。ただ、日本にも確かに乱世と下克上の時代があったとはいえ、西洋にくらべれば平和だったのは、同性愛を完全には排除しなかったということも大きいのではないかと思う。
 同性愛は勿論異性愛と同等に扱われることはない。ただ、武家やお寺での衆道は黙認され、江戸時代初期には女歌舞伎と同様、売春を伴う衆道歌舞伎も存在していた。これはやがて禁止されることになったが、日本には同性愛そのものが死に値する犯罪だという考え方はなかった。
 同性愛条項は多産多死社会特有の、生存権に順位を付ける中から生じるもので、西洋では真っ先に剥奪されるべきものだったのに対し、日本ではむしろ人口調節に利用されたといってもいい。
 日本では、家督を継げない者がお寺に預けられることは普通の事だったが、このお寺で同性愛が容認されることで、破戒僧が幼女を誘拐するようなことを防ぐことができたのではないかと思う。
 幼女は別にそういう趣味とは関係なく、人口学的に意味があった。人口を抑制するのに最も効果的なのは処女を間引くことだったから、処女をいけにえに捧げる文化は世界中至る所に存在していた。
 単純な理由で、男は一人で無数の女を孕ませることができるから、男の数を減らしても人口の抑制にはならない。女を減らせば、それだけ生まれる子供の数を減らせる。それが男尊女卑の起源だということは人類学者のコリン・ターンブルが指摘していた。
 既に出産を終えた女性を間引いても意味がないので、間引かれるのは出産経験のない女性ということになる。前近代では十五で結婚というのがどこの国でも普通だったので、間引くのはそれより前ということになる。
  チベットでも修行のためと称して少女との性交を行っていた。オウム真理教の浅原彰晃がそれを真似たことは有名だ。
 『源氏物語』でも源氏の君が美少年に興味を抱いたり、兵部卿宮がそれっぽいことを考えてたりするあたりも、同性愛的な感情にそれほどタブーはなかったことが窺われる。特に女子の妄想の中では、今のBLとそれほど変わらないといっても良いのではないかと思う。その兵部卿宮が誘拐された娘に無関心だったのは、コリンターンブルの説から説明がつく。
 源氏の君の場合、女の子は入内させて皇子を生ませようだとか、勿体ないから自分で食べちゃおうだとか、かなりよこしまではあるものの、結果的にはそれが女の子を大切に扱うことになる。
 また浮気心から来る一夫多妻のハーレム生活も、一方では後ろ盾を失って困窮する女性の救済になっている。蓬生巻はそうした文脈で読むべきなのだろう。結果的によこしまな浮気心であっても、それが女性の救済になっている。このパラドックスが『源氏物語』が多くの女房の心を捉えたのではなかったか。
 しょうもない男だけど、それでみんなうまく不思議と平和に収まって行く。その鍵となっているのは、単に欲望だけで動いているのではなく、源氏が相手をするのはみな風流を解するもので、女の美醜に係わらず、その人の持っている才能に並々ならぬ好奇心を持っているという所だ。
 和歌も無駄に詠んでいるのではなく、相手の才能をうかがう試金石の意味もある。即興で、如何に機知にとんだ受け答えができるか、姿かたちの美醜よりもそちらに重点が置かれていた。書や楽器の才能も勿論のことだった。まあ、大体あの時代は滅多に顔を見れない世界だったし、大事なのはそっちの方だった。
 文学は架空の世界を舞台にしたものであればなおさら、その世界観の理解が欠かせないように、古典文学を読むというのもまた、その時代の世界観やルールと切り離すことはできない。いたずらに今の感覚で光源氏は怪しからんということもできないのが古典の世界だ。
 明記されてない裏設定、つまりその時代の暗黙の了解事項を読み解くというのも、古典の楽しみの一つだ。

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