日本の報道の自由はロシア寄り、中国寄りの報道をする自由だからね。あれだけ毎日ロシアの快進撃を報道していたのに、実際はハルキウ州奪還。頑張れウクライナ。
そういえばアニメの『パリピ孔明』第六話で文選の古詩が出てきたな。随分前に『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いた時に引用した詩なのでよく覚えている。
謝尚の『大道曲』も確か『遙かなる時空の中で』という乙ゲーで使われていた。
曹操の『短歌行』ってこんな感じだったか。
對酒當歌 人生幾何
譬如朝露 去日苦多
酒に向かえばまさに歌
人生残りあといくら
例えば朝露のような
失った日々はもう幾多
慨當以慷 幽思難忘
何以解憂 惟有杜康
嘆いたっていいじゃない
隠した思いは忘れ難い
憂さを晴らすに手だてがない
あるのは杜康酒の神
曹操ファンに怒られそうだな。
さて、昨日の続きで、蘇東坡で花と柳を詠んだ詩というと、『和孔密州五絶 東欄梨花』という詩がある。
東欄梨花
梨花淡白柳深靑 柳絮飛時花滿城
惆悵東欄二株雪 人生看得幾淸明
梨の花の白は淡く柳の青は深い。
柳の綿毛が飛ぶころの城市は花に満たされる。
恨むべし東の欄干の二種類の雪。
人は何度この清明の季節を眺められる。
「二株雪」は「一株雪」とする本もあるが、ここは柳の綿毛と梨の花の二種類の雪と取っておきたい。
「惆悵」は日本人なら「惜しむらく」とでもしそうだが、あえて恨むを使うのは中国や韓国などの儒教文化の発想を取っておきたいからだ。
それに起承転結を考えた時、起承の景色に対し、ここは思い切った展開をして「いきなり何を恨むと言うのか」と驚かせておいて、結句で落ちを付けるというその呼吸を読んでおきたい。
日本の文学者はテキストで共時的に詩を読むことにすっかり慣れてしまっているが、声として発せられた場合の順序というのは、詩を耳で通時的に聞く文化にとっては重要なことだった。
うらやまし思い切る時猫の恋 越人
猫の恋思い切る時うらやまし
は共時的には一緒だが、通時的に聞いた場合に印象は大きく異なる。「落ちを最初にゆうな」という所だ。金笠(キムサッカ)の、
彼坐老人不似人 疑是天上降真人
を「彼坐老人降真人」としたのでは面白くもなんともない。
白い花を雪に喩えるのは、わが国では昔から桜が雪に喩えられてきた。
み吉野の山辺に咲けるさくら花
雪かとのみぞあやまたれける
紀友則(古今集)
桜ちる花の所は春ながら
雪ぞふりつつきえかてにする
承均法師(古今集)
などその数も多い。
卯の花もまた雪に喩えられてきた。
時わかずふれる雪かと見るまでに
垣根もたわに咲ける卯花
よみ人しらず(後撰集)
卯の花の咲けるあたりは時ならぬ
雪ふるさとの垣根とぞ見る
大中臣能宣(後拾遺集)
などの歌に詠まれている。
ただ、ここで言う卯の花は近世のウツギの花ではなく、「垣根」とあるようにウバラ(イバラ)の花を意味する。
白い花を雪に喩えること自体は、それほど珍しい発想ではない。
ただ、梨の花を雪に喩えるというと、
馬の耳すぼめて寒し梨子の花 支考
の句への影響というのは気になる所だ。この句は雪と言わずして、馬の仕草でもって雪を匂わしている。
詩は『詩経』大序では「志」であり、人の意志を伝えるためのものなので、景色の描写というのは基本的にはそれを呼び興すための「興」にすぎない。大和歌も「こころ」を述べるためのもので、そこは共通している。
その意味では、先日の「柳緑花紅真面目」の禅語も景色に対して「目に映る物をあるがままに受け入れること真実がある」という一つのメッセージになる。
ただ、「梨花淡白柳深靑」の詩句に関して言えば、文脈は明らかに異なる。
あまりに美しい景色なので、あと何回この景色を見ることができるのか。
それは単なる人生の儚さだけではなく、人生も国家も様々な争いごとによって、あまりにもたやすく失われてしまうことへの「恨み」の文脈の中で読まなくてはならない。麦秋の青空もまた同じかな。
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