昨日の写真。月読宮二十三夜尊。
ウクライナのバンドのТінь Сонцяは日本語読みのティン・ソンチャでは検索できないみたいだ。Тінь СонцяかTin Sontsiaで探す必要があるようだ。
マスゴミの戦勝記念連呼はうざい。八月九日だけでなく五月九日も反ロデーにした方が良いのではないか。二月二十四日も当然国際反ロデーにすべきだ。
それでは「郭公」の巻の続き、挙句まで。
二十五句目。
夜は飛ビ田の狐也けり
高灯籠杉の梢にありあけて 其角
高灯籠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高灯籠」の解説」に、
「① 石灯籠の一つ。台石を幾層にも重ねて高く作ったもの。
② 人の死後七回忌まで、その霊を慰めるために、盂蘭盆会(うらぼんえ)のある七月に立てる高い灯籠。また、特に関東・東北で新盆の家が高い竿につけてともす灯籠。《季・秋》
※俳諧・佐夜中山集(1664)三「寺々や世上に眼高灯籠〈重頼〉」
③ 高い櫓(やぐら)の上部に灯をともし、船の航行を助けたもの。灯台。
※新板なぞづくし(1830‐44)一「住吉高燈(タカトウロウ)(とかけて)色事の出合(ととく心は)松からうへぢゃ」
とある。
飛田の稲荷神社に①の意味での高灯籠か。京の伏見稲荷には験の杉があり、稲荷は杉に縁がある。
二十六句目。
高灯籠杉の梢にありあけて
晩-稲花さく湖の隈 蚊足
目立たないけど稲にも小さな花が咲く。前句をお盆の高灯籠として晩稲(おくて)の花が湖に面した田んぼに咲いている。隈は「くま」とルビがある。
二十七句目。
晩-稲花さく湖の隈
蜻-蛉の一かたまりに流るなり 其角
蜻-蛉はカゲロウであろう。一時期に大量発生する。大量発生して卵を産んだ後は皆死んで落ちて、湖を流れて行く。
二十八句目。
蜻-蛉の一かたまりに流るなり
隣ならべて機の糊ひく 蚊足
前句を天の川に見立てて、機織りの情景を付ける。
機(はた)の糊は、織り糸を扱いやすくするために糊を付ける作業か。地域によっては男も機織りをするので、織姫彦星も一緒に機を織ったか。
二十九句目。
隣ならべて機の糊ひく
通リなき冬の駅の夕あらし 其角
この場合の駅は「うまや」であろう。古代は駅路に準備されている駅馬のことだったが、近世では伝馬のいる場所になる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、
「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。
伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」
とある。
冬の駅は人通りも少なく、機織りの音が聞こえてくる。
三十句目。
通リなき冬の駅の夕あらし
降かかりたる雪の玉味噌 蚊足
玉味噌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「玉味噌」の解説」に、
「〘名〙 一般に、煮た大豆をつき砕いて麹(こうじ)と塩を混ぜて丸めた味噌玉をいう。また、大豆や蚕豆(そらまめ)を煮てつき砕き、麹と塩を混ぜて大きなだんごに丸め、わらづとに包み、炉の上などに一、二年置いて熟させた味噌。味噌玉。
※俳諧・続虚栗(1687)夏「通りなき冬の駅の夕あらし〈其角〉 降かかりたる雪の玉味噌〈蚊足〉」
※眉かくしの霊(1924)〈泉鏡花〉六「玉味噌を塗って、串にさして焼いて持ちます」
とある。
今の岐阜県関市にある道の駅平成で売られているという玉味噌は、真ん中に穴が開いていて、そこに縄を通して上から吊り下げて乾燥させるという。
大粒の牡丹雪、当時は帷子雪と言ったそういう雪だと、吊り下げた味噌玉のように見えなくもない。
元禄七年の「鶯に」の巻十九句目にも、
一阝でもなき梨子の切物
玉味噌の信濃にかかる秋の風 芭蕉
の句がある。これも吊り下げた玉味噌が秋の風に揺れる情景だったか。
二裏、三十一句目。
降かかりたる雪の玉味噌
釜かりに松の扉をたたかれて 其角
松の扉は槇の戸と同様、山奥に暮らす隠士の風情がある。豆を煮る釜を借りに来る人がいる。
松の戸は、
山深み春とも知らぬ松の戸に
たえだえかかる雪の玉水
式子内親王(新古今集)
の歌にも詠まれている。松の戸にかかる雪の一致からも、本歌と言って良いだろう。
三十二句目。
釜かりに松の扉をたたかれて
反故そろゆる閑な倫ミぞ 蚊足
反故は字数から「ほうぐ」だろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「反故・反古」の解説」に、
「〘名〙 =ほぐ(反故)
※右京大夫集(13C前)「ほかへまかるに、ほうぐどもとりしたたむるに」
[語誌](1)奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。
(2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。
(3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。→「ほご(反故)」の語誌」
とある。上古の乙類のオはウに変わったものが多いが、ウとオの交替がしばしば生じる。人麻呂が人丸になるのもその一つの例。反故はホグともホゴとも読む。
「倫ミ」の読み方はよくわからない。「なじみ」か。
隠士同士が軒を並べていれば、釜の貸し借りもあれば一緒に反故を整理したりすることもある。
三十三句目。
反故そろゆる閑な倫ミぞ
顔あまた都の友のなつかしく 蚊足
昔一緒に書を学んだ仲間たちを、その頃の反故を揃えながら、都を遠く離れた所で思い出す。
三十四句目。
顔あまた都の友のなつかしく
豆くふ数も人に笑われ 其角
節分には年の数だけ豆を食うが、久しぶりに会った都の仲間たちは皆老人となっていて、豆の数がこんなにとお互いに笑い合う。
三十五句目。
豆くふ数も人に笑われ
世中の花に駝のよろほひて 其角
駝は「せむし」とルビがある。背骨が後ろに湾曲することを言う。この場合は老化が原因で、節分の豆もたくさん食べる。
節分・立春は旧歴正月の前後なので、正月の「花の春」の季節になる。背中が曲がってよろよろ歩く老人は、それだけでお目出度い。正月に海老を食べるのも、腰が曲がるまで生きられますようにという願いだった。死亡率の高い時代は、年寄りになるまで生きられるというのがみんなの願いだった。
挙句。
世中の花に駝のよろほひて
寺より寺にあそぶ春の日 蚊足
年を取ってよろよろになっても、杖ついて順礼の旅をし続ける。そんな老人になってみたいものだ。
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