2022年5月20日金曜日

 『源氏物語』の女房語りが、女房達がうわさ話に花咲かすような乗りで、物語が女房によって語られた物であれば、物語の本来の役割というのは「誰も傷つかないうわさ咄」だったのかもしれない。
 実在の人間の噂は、根も葉もないことを言い立てられてはスキャンダルにされ、批判や誹謗中傷の嵐になりかねない。そうやって恋に名が朽ちていった人がどれほどいたか。
 あくまで架空の物語であれば、誰も傷つかずに済む。うわさ話を楽しむなら、実在の人間ではなく、架空の人間の噂話をすればいい。それが人類の偉大なる進歩だったのかもしれない。
 俳諧も基本的には「うわさ」であり、江戸時代の俳論の中ではしばしば「噂」という言葉が用いられている。そしてその俳諧が「虚」であるなら、俳諧もまた架空の人物の噂話であり、誰も傷つくことのないうわさ話を楽しもうというものだったのではないかと思う。
 もっと拡大して考えるなら、哲学ですら帰納法は未来の真実を保証せず、演繹法も無矛盾な体系は不可能、ただ自由の中にのみ真理があるというなら、哲学もまた何ら確実なものではなく、真理に関するうわさ話にすぎない。
 歴史も実際に過去に行って検証することができないんだからあくまで仮説にすぎず、少ない手掛かりに無数の仮説が乱立する「諸説あり」の状態だから、歴史もまた過去の人間のうわさ話の域を出るものでもない。
 まして日々駆け巡る世界のニュースも、様々な政治的立場から任意に切り取られ、印象操作されたり、偽のニュースを捏造したりして何が本当かわからない。これもまた「うわさ話」にすぎないのではないか。
 とにかく確実なものは何もない。すべては噂にすぎない。ならばそんなものを真に受けて、腹を立てて生きるなんて、何てつまらないことか。
 噂を信じちゃいけないよ。信じる者は馬鹿を見る。適当にふんふんと頷きながら生きるくらいでちょうどいい。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   目利はいかが見る庭の梅
 出替りや大宮人の御座直し    雪柴

 御座直しはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御座直」の解説」に、

 「① 謁見のとき、主君が座を直して、その人に敬意を表すること。
  ※随筆・松屋筆記(1818‐45頃)九三「御座(ゴザ)直しの侍、御目見えの時、君の御座を直し給ふは臣下の面目也」
  ② (寝所を用意する女の意) 妾(めかけ)、かこいものなどをいう。御座敷女。筵敷(むしろしき)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)「出替りや大宮人の御座直し〈雪柴〉 けはひけすりてけふもくらしつ〈正友〉」

とある。②の用例になっているが、「大宮人の」と付くから「おましどころ」の意味の御座を他の人と交代するということかもしれない。
 大宮人であれば、贅を尽くした調度を用いているから、次に交代でその局(つぼね)を使う人が残して行った調度の値踏みをしたついでに庭の梅を見たのかもしれない。
 五十二句目。

   出替りや大宮人の御座直し
 けはひけずりてけふもくらしつ  正友

 ここで②の意味の御座直しで、大宮人の妾がその後ろ盾を失い、荒れた蓬生の宿で化粧する金も削って暮らす、とする。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、

 ももしきの大宮人はいとまあれや
     さくらかざしてけふもくらしつ
              山部赤人(新古今集)

の歌を引いている。「大宮人」「けふもくらしつ」の位置が一致しているので、パロディーとも取れる。
 五十三句目。

   けはひけずりてけふもくらしつ
 俤やきり狂言におしむらん    一朝

 きり狂言はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切狂言」の解説」に、

 「① 歌舞伎の一日の上演狂言のうち、最終に演じる狂言。元祿期の上方から起こり、本狂言にそえた短時間のもの。のちに江戸では二番目狂言の終わりにつけた所作事をいう。切(きり)。大切(おおぎり)。
  ※評判記・役者評判蚰蜒(1674)ゑびすや座惣論「初太か小指のきり狂言にとうがらしの赤へたもなく山さるののふなしもまれにして」
  ② 物事の終わり。おしまい。
  ※譬喩尽(1786)六「切狂言(キリキャウゲン)じゃ 浄瑠璃より出たる語にして物の終に用る詞」

とある。
 歌舞伎役者とは言っても、この頃はまだ野郎歌舞伎の創成期で、市川なんちゃらのような千両役者の登場はまだ先のことだったのだろう。舞台の華やかさとは裏腹に、舞台を降りると侘しい生活をしている。
 五十四句目。

   俤やきり狂言におしむらん
 半畳敷ても命さまなら      一鉄

 半畳は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「劇場の切落し(大入場)の土間などで、観客に貸す一尺五寸四方の畳・茣蓙。新小夜嵐物語に「半畳の銭五文」とある。」

とある。
 命様はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「命様」の解説」に、

 「〘名〙 男の心を奪うような美女への呼びかけ。また、その女。男色の相手をいう場合もある。命とり。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「俤やきり狂言におしむらん〈一朝〉 半畳敷ても命さまなら〈一鉄〉」

とある。
 若衆歌舞伎の時代は衆道の売春もやっていたが、この時代だと普通に「押し」のことではないか。前句の「おしむ」を入場料を惜しんでの、半畳敷の安い席で応援とする。
 五十五句目。

   半畳敷ても命さまなら
 護摩の壇思ひの烟よこをれて   在色

 護摩はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「護摩」の解説」に、

 「〘名〙 (homa 焚焼、火祭の意) 仏語。真言密教の修法の一つ。不動明王または愛染明王の前に護摩壇を設け、護摩木を焚(た)いて、息災、増益(ぞうやく)、降伏(ごうぶく)などを祈るもの。しかし護摩には内外の二種があって、実際に護摩壇を設けて行なう修法を外護摩といい、内心に智火をもやして煩悩(ぼんのう)を焼除するのを内護摩という。
 ※続日本後紀‐嘉祥三年(850)二月丙子「又於二豊楽院一、令下真言宗修中護摩法上」
  ※十善法語(1775)九「火天の法、護摩あり、事火婆羅門は殊に敬重す」
  [語誌](1)元来、バラモン教で火神アグニを供養するために、供物を焚焼する儀礼があり、これが密教にとり入れられたもの。
  (2)密教の護摩は人間の煩悩を智慧の火で焼尽する修法である。祈願を書いた板や紙を護摩札といい、護符として用いられた。また護摩木の燃え残りや灰を服用したり、お守りとすることがあり、高野山奥院の護摩の灰は有名であった。」

とある。
 半畳敷きの祭壇で護摩を焚いて、その煙が命様の元に届くことを願う恋心とする。 間違って護摩の匂いの染み付いた生き霊を飛ばしちゃったりして。
 五十六句目。

   護摩の壇思ひの烟よこをれて
 ししつと笑ひさる狐つき     卜尺

 護摩を焚くのを狐憑きを治すためとする。「ししっ」と不気味な笑いを残して狐は去って行く。
 五十七句目。

   ししつと笑ひさる狐つき
 鮗や舟ばたをたたいて取上たり  志計

 鮗はコノシロ。焼くと人の死体を焼く時に似た独特な匂いと言うので、そこから子の代りに焼きいたからコノシロという伝説が生じた。ウィキペディアに、

 「むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。」

とある。芭蕉も『奥の細道』の室の八島のところで、

 「将(はた)このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨(むね)世に伝ふ事も侍りし。」

と記している。
 この句の場合は「取上げたり」とあるから、船に上がったコノシロを、狐憑きの女がししっと笑って、自分の子供が生まれたみたいにコノシロを取り上げたということか。今でいう糖質か。
 五十八句目。

   鮗や舟ばたをたたいて取上たり
 源平たがひにたうがらし味噌   松意

 「源平たがひに」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「平家物語に材を得た謡曲の常套句」とあるが、野上豊一郎の『解註謡曲全集』を検索した限りでは、謡曲『八島』の、

 「もとの渚はここなれや。源平互ひに矢先を揃へ、船を組み駒を並べて、うち入れうち入れ足なみに、鑣を浸して攻め戦ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15529-15533). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と謡曲『景清』の、

 「さもうしや方方よ、源平互ひに見る目も恥かし。一人を留めんことは案のうち物、小脇にかいこんで、何某は平家の侍悪七兵衛景清と、名乗りかけ名乗りかけ手どりにせんとて追うて行く。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.60590-60597). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の二例がヒットした。
 唐辛子味噌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「唐辛子味噌」の解説」に、

 「〘名〙 味噌に、唐辛子を混ぜて、味醂(みりん)で伸ばし、とろ火でねり上げたもの。田楽や風呂吹大根などにつける。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「や舟ばたをたたいて取上たり〈志計〉 源平たがひにたうからし味噌〈松意〉」

とある。前句の「取上たり」を奪ったという意味に取り成して、コノシロを失った源平双方とも唐辛子味噌の田楽で我慢した、ということか。
 五十九句目。

   源平たがひにたうがらし味噌
 さもしやなかたがたは皆やつこ風 正友

 「さもしやなかたがた」は前述の謡曲『景清』の「さもうしや方方よ、源平互ひに見る目も恥かし。」で、やっこ姿だから見る目も恥ずかしく、いかにも貧しそうに田楽を食っている。貧乏な野郎歌舞伎役者であろう。
 六十句目。

   さもしやなかたがたは皆やつこ風
 金にはめでじ恋はいきごみ    松臼

 貧しい奴の恋は金に物を言わすのではなく、脅迫まがいの意気込みで落とそうとする。
 六十一句目。

   金にはめでじ恋はいきごみ
 労瘵の声にひかれて樽をいだき  一鉄

 労瘵(らうさい)は弄斎節であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「弄斎節」の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌謡。癆瘵、朗細、籠済などとも記す。隆達節に続いて寛永(かんえい)(1624~44)ごろに京都で流行し、その後江戸でも流行して「江戸弄斎」とよばれた。語源については、癆瘵(ろうさい)という病気にかかった人のように曲調が陰気であったため(嬉遊笑覧(きゆうしょうらん))とか、朗らかな声で節細かく歌うため(異本洞房(どうぼう)語園)とか、籠済(ろうさい)という浮かれ坊主が始めたため(昔々物語)など諸説があるが、いずれもさだかではない。元禄(げんろく)期(1688~1704)にはまったく廃れているので、曲節は現存しないが、詞章は江戸時代の歌本類のなかに相当数散見できる。詞型の多くは七七七五調の近世小歌調を基本としており、三味線にあわせて歌ったものと思われる。八橋検校(やつはしけんぎょう)の箏(そう)曲『雲井弄斎』や佐山検校の同名の長歌(ながうた)物など、芸術音楽にも取り入れられているが、曲節の関係については不明である。[千葉潤之介]」

とある。
 樽には「そん」とルビがある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、謡曲『千手』の、

 「今日の雨中の夕の空、御つれづれを慰さめんと、樽を抱きて参りつつ既に酒宴を始めんとす。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.26293-26298). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の一節を引用していて、ここでは樽は「そん」と読む。
 後の俳諧では「たる」でも良かったところも、この時代は謡曲の出典のある言葉でないと多くの人に伝わらないという事情があったのかもしれない。「樽を抱きて」はこの出典がある限り、宴会の酒樽に限定される。
 前句を弄斎節の歌詞として、宴会の場面に転じる。
 六十二句目。

   労瘵の声にひかれて樽をいだき
 内二階より伽羅の追風      雪柴

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、同じ謡曲『千手』に、「樽をいだき」のだいぶ前の方に、

 「妻戸をきりりと押し開く。御簾の追風匂ひ来る、花の都人に、恥かしながら見みえん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.26239-26243). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあることを指摘している。御簾は香を焚き込むもので、御簾の追風を伽羅の追風としてもおかしくはない。
 とはいえ前句が弄斎節で江戸時代の遊郭。千手の前は御簾ではなく内二階(中二階)にいる。
 六十三句目。

   内二階より伽羅の追風
 ことさやぐ唐人宿の月を見て   卜尺

 唐人宿はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「指宿・差宿」の解説」の、

 「② 江戸時代、長崎に入港し、最初市内に宿泊することを許された中国の商人が指定した宿舎。寛文七年(一六六七)に禁止され、以後、各町が順番に彼らを宿泊させる宿町の制がとられ、さらに、元祿二年(一六八九)唐人屋敷を作り、ここに宿泊せしめた。」

とある、寛文七年に禁止された指宿以降で、元禄二年の唐人屋敷以前の中国人の商人が泊った宿であろう。やはり接待する遊女がいて、伽羅の香りがしたのだろう。
 「ことさやぐ」は外国人の意味の分からない言葉のざわざわいう音を表す。
 「さやぐ」は笹の葉などのざわざわいう音で、和歌では「笹の葉」「霜」と一緒に用いられることが多い。

 さかしらに夏は人まね笹の葉の
     さやぐ霜夜を我がひとり寝る
              よみ人しらず(古今集)
 君こずはひとりや寝なむ笹の葉の
     みやまもそよにさやぐ霜夜を
              藤原清輔(新古今集)

などの用例がある。
 六十四句目。

   ことさやぐ唐人宿の月を見て
 長き夜食のにはとりぞなく    一朝

 外国人の声が騒がしくて眠れなかったのであろう。唐人がこういう時に夜食にしている鶏が、朝の時を告げる。

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