2022年5月4日水曜日

 義経の鵯越も木曽義仲の火牛の計も後の『源平盛衰記』によるもので、『平家物語』にはない。大河ドラマの鎌倉殿も『平家物語』に忠実に描いているだけで、義経が勝手に歴史を改竄したわけではない。
 『源平盛衰記』の成立年代は不明とされているが、語り物ではなく書物として書かれたものなので、『曽我物語』の仮名本が成立したのと同じで、実際に流布したのは江戸時代であろう。
 多産多死時代のルールというのは、基本的に誰もが平等に生きられないという前提で作られた、生きる上での序列を付けるためのルールだから、近代のルールとは逆に柔軟性があってはいけなかった。
 その場その場で勝手にルールを曲げれば、必ず争いが起る。それも親子兄弟で血で血を洗う闘いになる。何よりも危険なのは、本来排除されるべき人が希望を持ってしまうことだった。
 それゆえ前近代のルールは杓子定規で絶対的なもので、神や天の名が必要だった。不条理であるがゆえに絶対でなければならなかった。それは人知を越えたものの命令であり、人間が勝手に曲げることのできないものでなければならなかった。
 捨子も必要悪で、すべての捨子が平等に生きてゆくのが無理だとわかっていたから、捨子が死んでゆくことは「天」でなければならなかった。
 芭蕉が富士川の捨子のくだりで「唯これ天にして、汝の性のつたなきをなけ。」と言い放つのは、不条理であるがゆえに絶対でなければならないという悲痛な叫びと理解すべきだったのだろう。
 近代ではルールは人間の定めたものになり、それゆえに万人平等の合理性が必要とされる。ただ、前近代から受け継がれた様々な慣習については、「不条理であるがゆえに絶対」とするものが残っている。
 ただ、それを前近代的な野蛮なものとするのは、状況の変化が理解されてない。実際、多産多死の状況が変わらないうちに万人に平等の権利を認めようとしたため、人口の増加は地球規模での植民地争奪戦を生み出した。
 その歪みは今日でなお多くの火種を残し、フロンティアの終わりのない戦争を生み出している。
 近代のルールは小産少死を達成することで維持される。この前提条件が崩れれば、世界は再び戦乱の時代に逆戻りすることになる。
 幸いロシヤや中国では人口の爆発は起きていない。少産少死の時代に育った世代は、たとえ独裁者に侵略戦争を命じられても戦意は低い。それが今回のウクライナ戦争にとっての一つの救いとなっている。ただ、問題なのは欧米も日本もそれ以上に戦意が皆無なことだ。せめて同等になるまで戦意を高めないとロシアの侵略は止められない。

 それでは「偽レル」の巻の続き。

 十三句目。

   さみだれ座敷蛙這来ル
 住ム人も志賀の古城やよむかし  千之

 志賀の都は歌にも詠まれているが、志賀の古城は特にどこということでもないのだろう。戦国時代の城は信長の安土城、秀吉の長浜城、光秀の坂本城、などが有名だが、その他にも中世から含めるとたくさんある。
 古城の荒れ果てた座敷は蛙が鳴くのみ。
 十四句目。

   住ム人も志賀の古城やよむかし
 石山の秋ノ月三井の晩鐘     其角

 石山秋月、三井晩鐘はともに近江八景で、他には勢多夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪がある。
 ウィキペディアには、

 「明応9年(1500年、室町後期)に近江国に滞在した元・関白の近衛政家(公家)が、当地にちなんでの和歌八首を詠んだ、とする史料[1]もあるが、当時の政家の日記『後法興院記』の調査により、政家が近江に滞在して近江八景の和歌を詠んだとされる明応9年8月13日(1500年9月16日)は、外出せず自邸にこもっていたことが判明している。
 また、江戸後期の歌人・伴蒿蹊は、慶長期の関白・近衛信尹自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、その奥書に、現行の近江八景と同様の名所と情景の取り合わせに至る八景成立の経緯が紹介されている。」

とある。
 瀟湘八景がもとになっていて、瀟湘夜雨→唐崎夜雨、平沙落雁→堅田落雁、煙寺晩鐘→三井晩鐘、山市晴嵐→粟津晴嵐、江天暮雪→比良暮雪、漁村夕照→勢多夕照、洞庭秋月→石山秋月、遠浦帰帆→矢橋帰帆となる。
 石山秋月は、

 石山や鳰の海てる月かげは
     明石も須磨もほかならぬ哉
              近衛政家

 三井晩鐘は、

 思ふその暁ちぎるはじめとぞ
     まづきく三井の入あひの声
              近衛政家

になる。前句の「古城やよむかし」を「古城や、詠むかし」と取り成し、近衛政家のこととしたか。
 十五句目。

   石山の秋ノ月三井の晩鐘
 尺八に棹さす露の丸木舟     千之

 琵琶湖というと丸子船で、コトバンクの「世界大百科事典 第2版「丸子船」の解説」に、

 「丸船ともいう。おそらく中世末期ないし近世初頭のころから近年に至るまで,琵琶湖で用いられてきた特異な小型~中型船(50石~200石程度)。若狭湾(敦賀,小浜)から峠を越えて琵琶湖経由で京・大坂に至るルートは,日本海岸各地と畿内を結ぶ物資流通の大動脈であったが,この湖上を南北に縦断する航路の主役がこの船であった。その外観上最大の特徴は,船首部の形状にある。すなわち,おけや樽をつくるように,下方をややすぼめた短冊形の板を,縫釘(ぬいくぎ)で円筒形にはぎ合わせ,ちょうど縦半割りにしたおけのような形の船首をつくる(船名の由来)。」

とある。
 これに乗って遊ぶのは普通だが、あえてわざとボケて原始的な丸木舟にする。
 十六句目。

   尺八に棹さす露の丸木舟
 遊子おどりの国ヲ尋ヌル     其角

 遊子は旅人の意味だが、ここでは念仏踊りを広めた遊行上人か。踊りを広めるために諸国を旅する。
 十七句目。

   遊子おどりの国ヲ尋ヌル
 花日々に老は娘の手を引て    千之

 花の季節ならお伊勢参りであろう。伊勢踊りの国を尋ねる。
 十八句目。

   花日々に老は娘の手を引て
 松ある隣リ羽かひに行      其角

 「羽かひ」は字数からして「はがひ」ではなく「はねかひ」であろう。老人が女の子を連れて羽根つきの羽根を買いに行く。
 花に松は、

 ふか緑ときはの松の影にゐて
     うつろふ花をよそにこそ見れ
              坂上是則(後撰集)

の歌がある。
 二表、十九句目。

   松ある隣リ羽かひに行
 百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに   其角

 「綺羅」には「きら」とルビがある。
 百千鳥は古今伝授三鳥の一つで、

 ももちどりさへづる春は物ことに
     あらたまれとも我ぞふり行く
              よみ人しらず(古今集)

の歌に詠まれている。
 諸説あるが、不特定多数の鳥の鳴く様だとも言う。
 轡は遊女屋の主人のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「轡・銜・勒」の解説」に、

 「⑤ 遊女をかかえておく家。遊女屋。また、その家の主人。くつわや。ぼうはち。
  ※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)下「此の女思ひ侘びて揚屋(あげや)へ行く〈略〉集ひて殿達の御出なれば、轡(クツハ)出て、奥に誘(いざな)ひ入れて退きぬ」

とある。
 百千鳥は遊女たちの比喩で、正月にきらびやかな服を着せてやり、羽根を買いに行く。
 二十句目。

   百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに
 雨なかだちて燕ヲ假ル      千之

 「燕ヲ假ル」には「さかもりをかる」とルビがある。
 コトバンクの「デジタル大辞泉「燕楽」の解説」に、

 「中国で、古代から宴会の席で演奏した音楽。各時代の新しい流行や、西域から移入された胡楽こがくなどを取り入れたもの。儀式のときの雅楽に対して俗楽ともいった。」

とあり、宴楽を燕楽とも書き、酒盛りの音楽になる。燕だけだと宴のことになり、「さかもり」と訓じる。
 雨で客の少ない時は、うちわで宴会をやるということか。
 二十一句目。

   雨なかだちて燕ヲ假ル
 年咄し今宵廬山の夜に似タリ   其角

 廬山の夜は白楽天の「廬山夜雨草庵中」であろう。

   廬山草堂夜雨独宿  寄牛二李七庾三十二員外 白楽天
 丹霄攜手三君子 白髪垂頭一病翁
 蘭省花時錦帳下 廬山夜雨草庵中
 終身膠漆心応在 半路雲泥跡不同
 唯有無生三味観 栄枯一照両成空

 朝焼けの空に手を取り合った三人の君子、
 白髪を頭から垂らした一人の病気の老人。
 蘭省とも呼ばれる尚書省は花盛りで錦の帳の下。
 廬山では雨降る夜の草庵の中。
 生涯膝を突き合わせると心に誓ってはいたが、
 途中で雲泥の差がついてしまった。
 何一つ変わったわけではない、
 栄えるも衰えるも結局一緒で最期は空になる。

 「年咄し」はこれだと年寄りの繰り言というような意味か。
 昔の友は出世して酒宴を開き、自分は草庵に籠って、栄枯も一炊の夢と自分を慰めている。
 二十二句目。

   年咄し今宵廬山の夜に似タリ
 毛-吹崑-山に名を晒スラン    千之

 毛吹は松江重頼の『毛吹草』に、虎の皮の毛を吹いて皮の傷を探す、という喩えで、人のあら捜しばかりしていると、却って足元を掬われるという意味。
 崑-山は崑崙山のことで天帝のいる所。
 今を時めくスターもいれば、ただのヒキニートもいる。成功した人を妬んでディスってばかりいても、却って自分の名を晒されることになる。何だか今のネットみたいだ。白楽天を見習えということか。
 二十三句目。

   毛-吹崑-山に名を晒スラン
 木がらしに浪士の市の彳     其角

 彳は「たたずまひ」とルビがある。
 木枯らしの吹く市場に浪士が一人佇んでいても、完全に浮いてしまっている。
 出世争いて、人を誹謗中傷してばかりいたら逆にその場にいられなくなり、牢人に身を落としたのだろう。
 せめて剣の腕でも立てば、近代の時代劇の主人公だが。
 二十四句目。

   木がらしに浪士の市の彳
 囘火消の霜さやぐ松       千之

 火消はウィキペディアに、

 「消防組織としての火消は、江戸においては江戸幕府により、頻発する火事に対応する防火・消火制度として定められた。武士によって組織された武家火消(ぶけびけし)と、町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別される。武家火消は幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)と、大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうびけし)に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在していた。」

とある。
 囘火消は「まはりびけし」でいいのか、よくわからない。火事場見廻(かじばみまはり)というのがあるから、それのことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「火事場見廻」の解説」に、

 「〘名〙 江戸幕府の職名。享保六年(一七二一)設置。若年寄の支配。江戸に火災の発生した際、風下にあたる武家屋敷、また寺社、町方へも出役し、消火の指揮をとるとともに、焼け跡を見回り、出火原因、被害状況を調査報告し、定火消(じょうひけ)しの火事場での勤務状況をも監察した。
  ※禁令考‐前集・第三・巻二九・享保九年(1724)正月一八日「出火之節、風下之屋敷方并寺社町等迄火事場見廻り之面々打廻り、防之儀差引いたし」

とある。
 この時代はまだこの制度はなく、その前身となる囘火消は牢人が雇われていたのかもしれない。
 焼け跡となったところは風の遮るものもなく、木枯らしが身にしみ、松も悲しげな音を立てる。

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