世界の平和を維持するシステムを考える場合、まず国連がなぜ失敗したかから考えてゆく必要があるだろう。
国連というシステムをどう手直しするかではなく、もっと根底からの問いが必要なように思える。
基本的には国家と国家の争いを鎮めるには、すべての国家を包括する上位組織を作ればいいというのは、いかにも誰でも思いつきそうな発想だが、そこにまず落とし穴がないかを考える必要がある。
先ず、近代社会の根底にある「万人の万人に対する戦い」という発想があり、これを調停するのは、それを制御する上位の組織、つまり国家を必要する、というのがあった。国連はその延長線上で、国家と国家もまた「すべての国家のすべての国家に対するリバイアサンの戦い」があるという前提に立ち、そこで上位組織として国連を作ったら?となったわけだ。
まず、自然状態において、「万人の万人に対する戦い」は起きない。これ自体が近代哲学の最大の妄想だった。あるのはシンプルな生存競争だけだった。生存競争は子孫を残す戦いであり、その目的さえ達成できるなら必要以上に争うことはない。
人間以外の多くの動物は順位制社会でそれを解消している。生存競争は有限な大地に無限の生命は不可能という単純な理由で、一定の定員を維持するための戦いだ。多くの生物は単純に「強い者に優先権がある」という所で生きている。
互いの強弱を量るのに、相手を殺すまで戦う必要はない。戦ってみてどっちが優勢かが判明すれば、そこで戦いは終わる。これはしばしば「儀礼的闘争」と言われるくらい簡略化される。
そして、一度優先順位がはっきりしたら、負けたものは生活に必要ななわばりを持つことができず、放浪の果てに野垂れ死にするだけだった。その多くは肉食獣の餌食となって行く。
多くの動物はフィジカルな強さで大まかな順位が決まる。ただ、知能が発達するにつれ、強い相手でも二人がかりなら倒せることが分かり、仲間を作ることが生存競争の役に立つことが分かって来る。
そして人類に至っては大勢でかかればどんな強い相手でも倒せることと、石器で寝込みを襲えば単独でも強い奴を倒せることを知ってしまう。そこから人類はフィジカルな強さを誇示する争いをやめ、より多くの仲間を作り、数で圧倒する戦略を取るようになった。人類の生存競争は多数派工作の戦いで、仲間外れになったものが淘汰されることとなった。
人間はこの中で仲間への優しさを獲得すると同時に、仲間でない者に対しての残虐さも同時に獲得した。人類にとって普遍的に存在するのは、万人の万人に対する戦いではなく、仲間の中で誰を排除するかを廻る排除のための戦いだった。
この排除が闇雲に行われないようにするには、ルールが必要だった。そこで生存権に序列を付ける厳格なルールが作られ、排除もまたルールに沿って厳格に行われることで、無用な争いを避けるようになった。このルールは神話に於いて、神や天の名に於いて絶対化されていった。
ただ、それは合理的な根拠に基づくものではなく、あくまで任意に作りうるものであるため、様々な民族独自のルールが作られ、様々な宗教が作られることとなった。
個人と個人の争いは同一ルール内での誰が真に排除されるべきかをめぐる掟の解釈の争いの範囲に留まる。だが、異なる民族同士の争いは共通の規範を欠いている。そのため、民族と民族の争いは殲滅戦になることも珍しいことではなかった。
西洋近代が生み出した近代国家観は、こうした過去の掟の神秘的な支配を終わらせ、万人平等の名のもとに新たなルールを再編する中から生まれた。しかし、社会はこれまで通り多産多死の状態が続き、常に人口の増加圧にさらされている状態で人権の優先順位を撤廃したらどういうことになるか。そこで起きたのは飢餓か侵略かの究極の選択だった。
事実西洋人は瞬く間に全世界を植民地化し、新大陸の先住民族を瞬く間に駆逐していった。
「万人の万人に対する戦い」は平等な個人を前提とした一つの仮説であり、現実には生存権に優先順位を付けることで争いを回避してきた。この優先順位が乱れて無視され、秩序を逸した時に初めて「万人の万人に対する戦い」の状態が生じる。
ただ、ヨーロッパ社会でもそんなに急に古い秩序が壊れたわけではなかった。特に同性愛者の排除などはかなり後まで残った。それに加えて侵略と植民地化の歴史は、人種差別を生み出していった。
人類は皆平等なのに、なぜある種の人間は排除され殺されたり奴隷にされたりするのか。レイシズムはそこから生まれた。人類ではないから平等の範疇に入らない。それが答えだった。
さて、西洋の近代社会は、一つの仮説としての「万人の万人に対する戦い」を回避するために、社会契約による国家という概念を作り出した。
国連の理想もまた、諸国家を一種の法人格とみなし、放置すると「万国の万国に対する戦い」になるということで、社会契約において国家の上位組織を作るという発想だったと思う。仮説の上に仮説を重ねた形だ。カントの『恒久平和のために』も基本的にこの延長線上にあったと思う。
ただ、民主主義国家ですら、平等な個人というのは一つの理想であり、相変わらず古い掟が残存し、差別や迫害が続く現実との間に大きなギャップがあった。
国連もまたその誕生時点で、第二次世界大戦の戦勝国によって作り上げられた「連合国=国連」であり、常任理事国は戦勝国によって独占されている。いわば、第二次大戦終了時の序列がそのまま反映されている。
あの時点ではまだ東西の勢力は伯仲し、均衡が保たれていた。それがやがて西側の資本主義諸国が高度成長を遂げ、東側の社会主義陣営が経済的に取り残されて行くこととなった。
建前としての平等に対し、現実は大きな格差を持つ者が同じ国連に同居している。
それに加えて、戦後かつての植民地の多くが独立してゆき、数の点では非西洋圏の国家が圧倒的に優位に立った。その多くは多産多死の状態から抜けられないまま、民主化がなかなか進まず、自ずと独裁国家群を形成することになった。
国連内部はその理想に反して独裁国家群が大きな力を持っていながら、何とか本来の理想を維持できたのは、多国籍軍による軍事制裁という暴力装置が存在したからだ。これには先進諸国でもいろいろ批判はあったが、世界中にある独裁国家の侵略戦争を防ぐには必要なことだった。
ロシアのウクライナ侵略は、多国籍軍の弱体化の隙をついて行われたといっていい。事実米軍もNATOも動かなかった。
たとえこの戦争でロシアが勝利したとしても、むしろなまじっか勝利したならと言った方が良いが、ロシアはグローバル市場経済から取り残されたまま、経済格差は決定的なものになって行く。
同じようにロシアに追随して侵略戦争を行う国が出てきたとしても、領土は広がったが生活は貧しくなるという状態になる。グローバル市場の恩恵を放棄して戦争を起こしたのだから、この帰結は当然のことだ。独裁国家が勝てば勝つほど、世界は貧しくなり、前近代の多産多死社会に逆戻りしてゆく。
このシナリオには基本的に希望はない。人類の衰退以外の何ももたらさない。行き着く果ては猿の惑星だ。
かつての人権思想が見切り発車して、地球レベルでの植民地争奪戦を引き起こしたように、国連もまた明らかに見切り発車だったことに気付くべきだろう。
今できることはというと、まずグローバル市場経済をとにかく死守することだ。そのためには自由主義諸国だけで、市場経済を壊す恐れのある独裁国家を排除した状態で、集団防衛体制を作らなくてはならない。NATOは残念ながらトルコを何とかしないと、最後まで足を引っ張られる可能性がある。
国連の再建は独裁国家群が十分に弱体化してから始めなくてはならない。そうでないと、国連再建案は結局悉く独裁国家群によって潰されることになる。
旧社会主義者と独裁国家が手を組んでいる限り、豊かで平和な未来は見えない。ロシアはまさにその象徴だ。
基本的に人権思想が少産少死の民主社会が達成された時には十分機能するように(昨今は過剰が問題だが)、国連も世界中がそうなったときには十分機能する。その時はおそらく核兵器禁止条約も機能すると思う。要するにみんな早すぎただけだ。条件が整わないうちに見切り発車しただけなので、今は再建よりも保留の方が良い。
それでは「月に柄を」の巻の続き。
第三。
蚊のおるばかり夏の夜の疵
とつくりを誰が置かへてころぶらん 傘下
前句の疵を転んで怪我した疵とする。
四句目。
とつくりを誰が置かへてころぶらん
おもひがけなきかぜふきのそら 傘下
転んで仰向けに倒れれば思いがけず空が見える。
五句目。
おもひがけなきかぜふきのそら
真木柱つかへおさへてよりかかり 越人
「つかへ」は胸の詰まりで、風に吹かれて冷えて心臓発作を起こし、真木柱に寄りかかる。
六句目。
真木柱つかへおさへてよりかかり
使の者に返事またする 越人
これは『源氏物語』の蓬生巻であろう。大弐の奥方が蓬の生い茂る末摘花の家にやって来た時、門を開けようとすると、左右の戸が倒れて来る。前句を真木柱をつっかえ棒にして寄りかかって、倒れるのを防ぐ様とする。
ここで末摘花を連れ出そうとするが、末摘花はそれを拒み、長年いっしょだった侍従だけを連れて行くが、その間誰かが門を抑えて待っていたのかもしれない。
初裏、七句目。
使の者に返事またする
あれこれと猫の子を選るさまざまに 執筆
使いの者は猫を引き取りに来たが、どの猫をしようか迷う。
黄庭堅の「乞猫」という詩に、
秋來鼠輩欺猫死 窺翁翻盆攪夜眠
聞道狸奴將數子 買魚穿柳聘銜蟬
秋が来て鼠たちが猫が死んでこれ幸いと、
甕を窺いお盆をひっくり返し夜の眠りを攪乱す。
聞く所によると狸の奴に子どもが数匹いるというので、
魚を買い柳の枝に差して銜蟬を召喚す。
とある。
「銜蟬」は伝説の猫で鼠捕りの名人だったという。それを選び出すのに手こずっているのか。
八句目。
あれこれと猫の子を選るさまざまに
としたくるまであほう也けり 傘下
「としたくる」は年齢を重ねるという意味で、年をとってもアホやねん、ということ。この年になって猫を真剣に選んでいて、何やってるんだというところか。
九句目。
としたくるまであほう也けり
どこでやら手の筋見せて物思ひ 傘下
手の筋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手の筋」の解説」に、
「① 手の皮膚を通して見える血脈。あおすじ。
② てのひらについているすじ。てのひらにあらわれた紋理。手相。てすじ。てのあや。
※俳諧・西鶴大矢数(1681)第九「千貫目親のつたはり穐の月〈西道〉 よい事計手の筋の蔦〈西伝〉」
③ ②を見て、運勢吉凶を判断する人。手相見。また転じて、相手の身の上についてうまく言いあてること。
※歌舞伎・勧善懲悪覗機関(村井長庵)(1862)序幕「とてもの事に手の筋と言ひたい程に当てられたが」
④ 文字の書きざま。また、文字を書く巧拙の性分(しょうぶん)。
※蜻蛉(974頃)下「陸奥紙にてひき結びたる文の〈略〉みれば、心つきなき人のてのすぢにいとようにたり」
とある。①の意味で、自分の手を見ながら年取ったなと物思いに耽る。相変わらず恋に苦労してアホやな、というところか。
十句目。
どこでやら手の筋見せて物思ひ
まみおもたげに泣はらすかほ 越人
泣きはらして目の周りが腫れたから、瞼(まみ)が重たく感じる。前句の「物思ひ」を受けて、その様を付ける。
十一句目。
まみおもたげに泣はらすかほ
大勢の人に法華をこなされて 越人
「こなす」はいろいろな意味があるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「熟」の解説」の、
「[二] 上位に立って他を思いのままに扱う。
① 思いのままに自由に扱う。与えられた仕事、問題をうまく処理する。
※説経節・さんせう太夫(与七郎正本)(1640頃)上「きをば一ぽんきりたるが、こなすほうをしらずして、もとをもっておひきあれば」
※人情本・春色辰巳園(1833‐35)初「色の世界のならひとて、〈略〉男をこなす取まはし」
② 思うままに処分する。片づける。征服する。
※両足院本山谷抄(1500頃)一「艸枯時分に夷をこないてくれうと思ぞ」
③ 見くだす。軽蔑する。軽く扱う。
※土井本周易抄(1477)一「上なる物は負くるもやすいぞ。下なる者は一度あやまりしたれば、取てかへされぬぞ。こなさるる程にぞ」
※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)三「元主人の娘のおめへを、あんまりこなした仕打だから」
④ いじめる。ひどい目にあわせる。苦しめる。〔観智院本名義抄(1241)〕
※虎明本狂言・右近左近(室町末‐近世初)「おのれはなぜにさんざんに身共をこなすぞ」
の意味であろう。「けなされて」に近いか。
どういう状況なのかよくわからないが法難のことか。
十二句目。
大勢の人に法華をこなされて
月の夕に釣瓶縄うつ 傘下
人が月見で浮かれている時に、井戸の釣瓶の縄を打たされている。これもいじめか。
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