ネオナチという言葉もレッテル貼りに濫用されたから、今ではすっかり元の意味と変わってしまっている。今はネオナチ=愛国者でOKのようだ。ウクライナの愛国者に敬意を。そういうわけで、ロシアさんご苦労さん。
まあ、日本の右翼と一緒で、欧米でも六十年代七十年代のようなネオナチって、今はごく一握りの爺さんたちだけになってるんだろうな。いるのは、ナチスの国内政策の一部を再評価しながらタブーに抵抗はするけど、戦争は嫌い、侵略なんて真っ平御免という、日本に以前いた本来の意味でのネトウヨのような連中なんだろう。
前にも書いたが、ネトウヨという言葉もさんざんレッテル貼りに利用されたから、一頃はマルクス主義者でない人という意味で用いられていたが、今は一部のカルト教団を指す言葉になっている。
それにしてもロシアの戦車はありゃひどいな。黒髭危機一髪だ。
あんなのに乗せられちゃあ、対戦車ミサイルの標的にならないように、後ろの方でうろうろしていたくなるな。道理で戦線が前へ進んでいかないはずだ。
ロシアの戦車を買ってる国は、今頃蒼ざめているんじゃないかな。
それでは旧暦四月になったので、『阿羅野』の初夏の発句の方を。
初夏
ころもがへや白きは物に手のつかず 路通
衣更えで白というと、
春すぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすてふ天の香具山
持統天皇(新古今集)
であろう。
江戸時代の衣更えは、別に白いのに着替えるわけではなかったので、一般的に白のイメージはわかなかったんだと思う。ただ、上古の風流を思い起こすという意味では、巻頭を飾る価値がある。
ちなみに、「ころもがへ」という言葉は、
花の色にそめしたもとのをしければ
衣かへうきけふにもあるかな
源重之(拾遺集)
にも詠まれていて、雅語になる。
更衣襟もおらずやだだくさに 傘下
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「だだくさ」の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
着物を畳む時には襟がくしゃくしゃにならないように、下前身頃を畳んだ時に襟が外側に向くようにおくみを折り返し、上前身頃を畳む前に襟を内側に折っておかなくてはならない。それをいい加減にやっておくと、夏になって着ようとした時に襟がしわしわになっている。
当時の着物あるあるだったのだろう。
ころもがへ刀もさして見たき哉 鼠弾
当時は庶民も脇指は携帯していたが、びしっと糊のきいた着物を着ると、大刀もさして見たくなる。大小の帯刀を許されない平民の夢か。
肖柏老人のもちたまひしあらし山といふ香
を、馬のはなむけに文鱗がくれけるとて、
雪の朝越人が持きたるを忘れがたく、明る
わか葉の比、文鱗に申つかはしける
髭に焼香もあるべしころもがへ 荷兮
何やら由緒ある上等な香を頂いて、それを衣更えの時に思い出して焼(た)き込んでみる。
色男でもない髭面の自分には似合わないということだが、『源氏物語』にも髭黒の大将がいる。
肖柏も肖像画に描かれたものは髭を生やしている。
山路にて
なつ来てもただひとつ葉の一つ哉 芭蕉
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一葉」の解説」に、
「ひとつ‐ば【一葉】
〘名〙
① シダ類ウラボシ科の常緑多年草。本州の千葉県以南の暖地の岩上や樹幹に着生する。葉は長柄をもち一枚ずつ直立する。葉身は長さ二〇~四〇センチメートルの長楕円形で裏に黄褐色の星形の毛が密生する。胞子葉は栄養葉よりやや狭く裏面は赤褐色の子嚢群におおわれる。漢名、石韋・飛刀剣。いわぐみ。いわのかわ。いわがしわ。《季・夏》 〔易林本節用集(1597)〕
② 植物「はらん(葉蘭)」の異名。
③ 植物「いぬまき(犬槇)」の異名。
④ 植物「ひとつばかえで(一葉楓)」の異名。
⑤ 植物「はくうんぼく(白雲木)」の異名。」
と、五つの植物が列挙されているが、ここはそれではなく、
「ひとっ‐ぱ【一葉】
〘名〙 一枚の葉。→ひとっぱも」
の方であろう。衣更えしようにも、これ一枚しか持っていない。
旅の途中だと、旅の衣の着替えはあっても、特に晴れの日に着る夏物は用意していない。
いちはつはおとこなるらんかきつばた 一井
イチハツはウィキペディアに、
「アヤメ科アヤメ属の多年草。帰化植物。」
とあり、
「中国原産の植物で、古く室町時代に渡来し、観賞用として栽培されてきた。昔は、強い風を防ぐという迷信があったので農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は少なくなった。そのせいか英名の一つが「roof iris」である。逸出し野生化しているものもある。」
とある。
杜若は、
唐衣きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
在原業平(古今集)
いひそめし昔のやどの杜若
色ばかりこそかたみなりけれ
良岑義方(後撰集)
のように、女性に喩えて用いられる。
イチハツは杜若に似ているが、室町時代に入ってきたということもあって、和歌には詠まれない。俳諧の花で杜若が女なら、イチハツは男に詠めばいいのか、とする。稚児をイチハツに喩えるのか。
柿の木のいたり過たる若葉哉 越人
柿若葉は近代では「柿若葉」という独立した季語として扱われているが、曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』にもない所を見ると、普通に「若葉」の句として扱われていたのだろう。
柿の若葉は薄い奇麗な緑色で艶があり、他の若葉に比べても綺麗すぎる。「超若葉じゃん」というところか。「柿若葉」が独立した季語になったのも、この句の力かもしれない。
若葉は和歌だと「芦の若葉」「芝生の若葉」「松の若葉」「蔦の若葉」などは春に詠み、「草の若葉」は、
浅緑草の若葉と見し野辺の
はや夏深く茂るころかな
(続千載集)
のように夏に詠まれている。
木の若葉は、
若葉さす玉の卯都木の枝ごとに
幾世の光りみがきそふらむ
藤原良経(正治初度百首)
の例があるが季節はよくわからない。
今日でも俳句を知らない人が「若葉」と聞くと、大抵の人は「春」と答えるだろう。俳諧の若葉が特殊な使い方をしていると思った方が良い。
切かぶのわか葉を見れば桜哉 不交
切株も春には芽を出し、初夏には若葉を茂らす。
よく見ると去年切り倒された桜で、今年は花は見られなかったが、生きていてくれたかと思うと嬉しい。
若葉からすぐにながめの冬木哉 藤蘿
てにはがわかりにくい句だが、今は若葉だから見えないけど、冬木の時は直に眺めることのできた木だった、ということか。
わけもなくその木その木の若葉哉 亀洞
色々な木があって、それぞれに異なる若葉が萌え出すのを見ると、わけもなく感動する。
世の中もそれと同じで、いろいろな身分のいろいろな職業の人がいるが、みんなが幸せになれればいいと思う。身分社会というのもある意味では多様性社会だ。
ひらひらとわか葉にとまる胡蝶哉 竹洞
蝶は花に止まるものだが、若葉にも止まる。
ゆあびして若葉見に行夕かな 鈍可
若葉の頃は気温も上がり、そろそろ夕涼みもしたくなる。
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