2022年5月12日木曜日

 アップルミュージックの二〇二〇年に作ったプレイリストを久しぶりに聞いていたら、いきなり「マスクどこにも売ってない」とか、そうだったな。あの年の春頃って、マスクの入手にみんな苦労してたな。
 日本で流通していた不織布マスクの多くは中国で作られていて、それが止まってしまって、あわててシャープなどの日本企業が国産マスクの生産を始めたりしていた。 本来ならマスク着用を義務化しなくてはならない時に起きたマスク不足に、国からのマスク配布は必然的な流れだった。使う使わないは別としても、買い占めを防ぐためには有効な手段だったと思う。
 筆者はそのころ会社から不織布マスクの配布を受けてはいたが、毎日取り換える程の量もなく、アベノマスクを長いこと愛用させてもらった。不織布マスクに比べてガーゼマスクは呼吸が楽なので、肉体労働には向いていた。
 その安部さんのロシア政策は、特に北方領土での二島で妥協するような姿勢は、最初からかなり批判を受けていた。多分エリツィン以降の民主化の流れが定着するという読みで動いていて、プーちんの本質を見誤っていたのは間違いない。ただ、外交は外務省のお膳立てが必要なものだけに、当然外務省にも責任がある。
 コロナの方は五月十日の時点で全国の重症者数が163人、東京は9人。これくらいが常態化していくのかもしれない。ちなみに重症者数のピークは去年の九月三日の2,223人。デルタ株が猛威を振るったときのピークで、オミ株のピークは二月二十五日の1,507人になっている。重症化率が低くなったのがよくわかる。
 あと、「郭公」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それではふたたび夏の俳諧ということで、上五はおなじ「ほととぎす」。阿羅野の荷兮・野水の両吟歌仙を読んでいこうと思う。区別する意味でこっちを「ほととぎす」の巻、とする。

 ほととぎす待ぬ心の折もあり   荷兮

 郭公はその人声を夜通し待って、明け方の一声を聞くことを本意とするが、実際古歌を見ると必ずしもそうではなく、ホトトギスを待つというのは元はホトトギスを待つというよりも、来ぬ人を待って夜が明けてホトトギスを聞くか、物思いで眠れずにいるとホトトギスの声がするだとかいうものも多かった。

 夏山に鳴くほととぎす心あらば
     物思ふ我に声な聞かせそ
              よみ人しらず(古今集)
 足引きの山ほととぎす我がごとや
     君に恋ひつつ寝ねかてにする
              よみ人しらず(古今集)

などの歌は別にホトトギスを待っているわけでもない。
 ただ、古今集の時代にも、ホトトギスを待つ歌はあった。

   さぶらひにて、男どもの酒たうべけるに、召して、
   「ほととぎすまつ歌よめ」とありければよめる
 ほととぎす声もきこえず山彦は
     ほかに鳴く音をこたへやはせぬ
              凡河内躬恒(古今集)

は待つ郭公が題詠になっていたことがわかる。
 ホトトギスを朝まで待つというのは、どこか「罪なくして配所の月を見る」に似ている気がする。眠れぬような悩み無くして夜明けのホトトギスを聞くといったところか。

 待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす
     花橘の匂ふあたりは
              大弐三位(後拾遺集)

の歌もある。
 待って聞くホトトギスも一興だが、待たずして聞くホトトギスも、深い心があってのことなのだろう。
 まあ、風流というのは基本そういうものなのかもしれない。平和で豊かで何不自由ない生活をしていても、苦しい思いをしている人の気持ちを理解するというのは、人間として心を豊かにしてくれる。それを可能にするのが文学の力だ。
 「罪なくして配所の月を見る」というのは、罪がなくても罪人の気持ちを理解するということだ。 
 脇。

   ほととぎす待ぬ心の折もあり
 雨のわか葉にたてる戸の口    野水

 ホトトギスというとあやめ草や花橘や卯の花を読むことは和歌にもあるが、若葉を付けるのは近世的な発想なのだろう。とはいえ、室町時代には、

 時鳥鳴くや涙のはつ染に
     木木の若葉や色に出つらん
              正徹(草根集)

の例がある。『阿羅野』というと、

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

の句は有名だ。
 この場合は戸口を閉ざして、前句の「待ぬ」の心を、誰を待つでもなくホトトギスを待つでもなく、一人引き籠るということで、夏安居の心としたか。
 夏は虫が多く、歩くだけで殺生をすることになるので、外出を控える。夏籠りとも夏行ともいう。
 第三。

   雨のわか葉にたてる戸の口
 引捨し車は琵琶のかたぎにて   野水

 「かたぎ」は「堅木」か。枇杷の木は堅くて木刀などに用いられる。
 ここでは戸口の枇杷の木の辺りに車を引き捨てて、戸口を閉ざすとする。雨なので仕事はお休みということだろう。
 四句目。

   引捨し車は琵琶のかたぎにて
 あらさがなくも人のからかひ   荷兮

 からかひはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「からかう」の解説」に、

 「[1] 〘自ハ四〙
  ① 押したり返したりどちらとも決しない状態で争う。葛藤(かっとう)する。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※古今著聞集(1254)一六「心のはたらく事しづめがたけれども、猶とかく心にからかひて、其の年も暮れぬ」
  ② 言い争いをする。また、争う。闘う。
  ※九冊本宝物集(1179頃)八「とりくみ引くみて、夜もすがらからかひて」
  ※葉隠(1716頃)一「渡し舟にて、小姓酒狂にて船頭とからかひ」
  ③ 関心をよせる。かかわる。
  ※大恵書抄(14C後‐16C後)「あるないにはからかうまい」
  [2] 〘他ワ五(ハ四)〙 冗談を言ったり困らせたりしながら相手をなぶりものにする。じらして苦しめる。
  ※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「小ぢょくは供をしながらふりかへりて熊にからかふ」
  ※多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉後「那様(あんな)事を言って僕を娗(カラカ)ったに違無い」

とある。ここでは口論か軽い小突き合い程度の争いということだろう。
 前句の枇杷の堅木を木刀として、物が木刀だけに真剣ではない喧嘩というところか。
 [2] は今でも用いる「からかう」だが、最近は「いじる」の方をよく用いる。
 五句目。

   あらさがなくも人のからかひ
 月の秋旅のしたさに出る也    荷兮

 まあ、日々の喧騒というか、いじったりいじられたりするのも面倒くさくなると、人は旅に出たくなるものだ。
 六句目。

   月の秋旅のしたさに出る也
 一荷になひし露のきくらげ    野水

 木耳(きくらげ)は中華料理などにも用いられるが、江戸時代の人も好んで食べていた。旅のお供に木耳を背負ってゆく。

0 件のコメント:

コメントを投稿