2022年5月28日土曜日

  「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─紫」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。


 ウイグルのことが今の状況だとどうしてもウクライナの陰に隠れてしまうけど、虐殺が続いていることには変わりない。
 ウクライナと違うのは、対戦車ミサイルを持って抵抗することすらできずに、やられっぱなしになっているということだ。
 中国に対抗できる軍隊もない。武器の支援を受けているわけでもない。でも、これが国際社会でまかり通るんだという前例を作ってしまえば、こうしたことはやがて世界中で起こるかもしれない。
 今のところ中国の動きは香港・台湾・それと小さな島以外で国境を越える動きはなく、逆に国境を越えて来ないから他所の国も手出しがしにくい状態にある。「内政干渉」という概念に守られてしまっている。
 北朝鮮のロケットマンも相変わらずだし、こうした国々に囲まれた日本の平和もすっかり黒い雲に覆われてしまっている。
 こうした中で今の平和な暮らしや子供たちの命を守っていかなくてはいけないと思ってはみても、ただひたすら平和を祈るだけという選択肢はもうないと言って良い。 少なくとも抵抗できるだけの力を持つべきなのか、無抵抗で外からの愛する人や子供たちが殺されていくのを黙って見ているべきなのか、我々は選ばなくてはいけない。
 世界平和の夢を再構築するには、独裁国家の暴走を止める実効性のある手段を持たなくてはならないが、今の状態では経済制裁も市民運動もあまりに無力だ。
 経済制裁は長期戦になれば戦費を枯渇させる効果はあるかもしれないが、初動のさいの抑止力にはならない。武力を伴わない丸腰の市民運動は、それぞれの国の政府の対応に影響を与えることはできても侵略国家の抑止力にはならない。
 概ね反戦運動は、参戦や武器供与に反対するもので、むしろ侵略国家を助けることになる。
 理想を言えば、それに代わる実行力のある方法を考えなければいけないのだが、いつになるかわからないので、緊急事態には間に合わない。
 特効薬の開発と対症療法とは別物で、それらは並行してやっていかなくてはならない。その二つの並立は矛盾するものではないので、あれかこれかの二者択一ではない。まして争うべき事案ではない。
 いずれにせよ、世界平和を願うなら、ウクライナ侵略とウイグルホロコーストを容認するな。これだけは言っておきたい。

 さて、そろそろ平常運転に戻るということで、『阿羅野』から、「月に柄を」の巻を読んでいこうと思う。
 俳諧や連歌の全句解説や、何々を「読む」のシリーズは、基本的には有料化せずに、鈴呂屋書庫の無料コンテンツに留めておこうと思う。
 さて、発句には前書きが付いている。

   月さしのぼる気色は、昼の暑さもなくなる
   おもしろさに、柄をさしたらばよき団(うちは)と、
   宗鑑法師の句をずむじ出すに、夏の夜の疵
   といふ、なを其跡もやまずつづきぬ
 月に柄をさしたらばよき団哉

 この句は俳諧の祖と言われる山崎宗鑑の句で、

 月かげの重なる山に入りぬれば
     今はたとへし扇をぞおもふ
              藤原基俊(新千載集)

 よそへつる扇の風やかよふらん
     涼しくすめる山のはの月
              洞院実雄(宝治百首)

など、しばしば夏の月が扇の風の涼しさに喩えられてきたのを受けてのもので、『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注は、

 夏の夜は光涼しく澄む月を
     我が物顔にうちわとぞ見る
              高松院右衛門祐(夫木抄)

の歌を引いている。
 山の端の月は山の谷の所に月がかかれば扇の形になるが、団扇ならそのまま中空の丸い形になる。
 その意味では題材として新しいものではなかったが、ただ比喩として喩えるのではなく、「柄をさしたらば」という所に俳諧がある。
 このことは『去来抄』修行教にも、

 「去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。譬ば、
 月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とあり、「月を団扇に見立たるも物ずきならずや」という魯町の問いに「賦比興は俳諧のみに限らず、吟詠の自然也」と答えている。見立ては詩歌連俳の常で、それ自体が物数寄ではないと答えているが、月を団扇に見立てること自体も別に新しいことではなかった。
 「夏の夜の疵」というのは、

 夏の月蚊を疵にして五百両    其角

の句がある。この句は『五元集拾遺』にある句で、いつの句かはわからない。
 付け句がヒントになって発句が作られることは珍しいことではないので、多分次の越人の脇の方が先であろう。
 貞享四年の「ためつけて」の巻二十一句目に、

   釣瓶なければ水にとぎれて
 夕顔の軒にとり付久しさよ    越人

の句があるが、これなども、

 朝顔につるべとられてもらひ水  千代女

に先行する句となっている。
 その脇だが、

   月に柄をさしたらばよき団哉
 蚊のおるばかり夏の夜の疵    越人

 「春宵一刻値千金」を踏まえての「五百両」という発想に至らなかった分、損しているが、越人にはこういう「あと少し」の句が結構ある。

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