2022年5月23日月曜日

 日本の今の円安は、日本には安い労働力があるということだから、日本に工場を引き戻し、物作りを復活させるチャンスなのではないかと思う。
 特に半導体の安全保障という点で、半導体の脱中国が求められている。日本の半導体復活のチャンスになる。ドローンやソーラーパネルなども、安全保障という面では脱中国化した方が良い。ついこのあいだマスクでも懲りたではないか。
 コロナが始まった頃、不織布マスクの生産を中国に依存してたから、それが入ってこなくなってマスク不足が生じて、慌ててベトナムやミャンマーでガーゼマスクを作らせて、国で配布することになった。それを忘れたか。
 あのアベノマスクが、医療従事者に優先的に不織布マスクを回すために必要な措置だったということも、今では忘れ去られている。
 災い転じて福となす。ピンチは同時にチャンスでもある。それを利用することは不謹慎なことではない。震災は防災を見直すチャンスだし、戦争は防衛を見直すチャンスになる。恥じることではない。
 昨日の続きだが、結局独裁というのは、いろいろな意見の人がいて煩わしい複雑な人間関係の調整から逃げたい、という欲求から生まれるのかもしれない。だが、それは異なる意見の抹殺にすぎない。人間関係の複雑さは逃れなれないものとして、腹をくくって向き合っていかなくてはならない。それが人間だ。
 逃れたいなら昔から「引き籠る」というのが一つの答えだった。仏教は引き籠りに積極的な名目を与えてきた。引き籠りが恥ずかしいことではなく、世俗を断つことが敬意を持って受け入れられる社会なら、彼らがネット上で独裁者のようにふるまうこともなくなるのではないか。

 それでは「郭公(来)」の巻の続き、挙句まで。

 名残裏、九十三句目。

   弓手に高札め手に落書
 下馬先に御かご童僕みちみちたり 志計

 童僕はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「童僕・僮僕」の解説」に、

 「〘名〙 少年の召使い。男の子のしもべ。
  ※凌雲集(814)伏枕吟〈桑原公宮〉「池台漸毀、僮僕光離」
  ※方丈記(1212)「妻子・童僕の羨めるさまを見るにも」 〔易経‐旅卦〕」

とある。
 宿場の風景で、駕籠が着くと子供たちがそこいらに落書きしたりする。
 そんな沢山の童僕を引き連れた人って、やはりその趣味なのかな。
 九十四句目。

   下馬先に御かご童僕みちみちたり
 遠所の社花の最中        松意

 辺境の田舎の神社では籠が珍しいのか、子供たちが寄って来る。
 九十五句目。

   遠所の社花の最中
 ゆふしでやあらしも白し米桜   正友

 米桜はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「米桜」の解説」に、

 「〘名〙 植物「しじみばな(蜆花)」の異名。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)四「花散らばいかにしゃう野の米桜」

とあり、蜆花は「精選版 日本国語大辞典「蜆花」の解説」に、

 「〘名〙 バラ科の落葉低木。中国原産で、観賞用に栽植され、生垣などにする。高さ一~二メートル。枝は叢(そう)生し若枝には綿毛状の毛がある。葉は長さ三センチメートルぐらいの楕円形で縁に細かい鋸歯(きょし)がある。春、葉に先だって多数の八重咲きの白色花が小球状に密生して咲く。八重咲きの白花を蜆貝の内臓に見たててこの名がある。漢名、笑靨花。〔和漢三才図会(1712)〕」

とある。ユキヤナギに似ているが八重咲。神社に咲いていると木綿四手が下がっているようでもある。風に散ると嵐も白い。
 九十六句目。

   ゆふしでやあらしも白し米桜
 雀は巣をぞかけ奉る       雪柴

 木綿四手の垂れている神聖な場所だから、雀も巣をかける時は心しなくてはいけない。
 九十七句目。

   雀は巣をぞかけ奉る
 やぶれては紙くずとなる歌枕   一鉄

 歌枕で「やぶれる」というと、

 人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

だろう。不破(やぶれず)と書く不破の関も破れて荒れ果てている。廂(ひさし)の「抜け」と見ていいだろう。雀が破れた庇に巣を掛ける。
 不破というの後に芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪れた時、

 秋風や薮も畠も不破の関     芭蕉

の句を詠んでいる。
 九十八句目。

   やぶれては紙くずとなる歌枕
 ねり土にさへ伝授ありとや    松臼

 ねり土はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「練土・煉土」の解説」に、

 「〘名〙 粘土に石灰、小砂などを混ぜ合わせたもの。建物の外壁などに用いる。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「やぶれては紙くずとなる歌枕〈一鉄〉 ねり土にさへ伝受ありとや〈松臼〉」

とある。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「紙屑などを混ぜて練り合わせる」とあるように、和歌を書き付けた紙も反故になれば紙屑でねり土にされてゆく。
 歌枕に古今伝授などがあるように、それが反故になっても何かの伝授があるのか、とする。
 九十九句目。

   ねり土にさへ伝授ありとや
 見ひらくやさとりの眼大仏    卜尺

 「眼大仏」はここでは「まなこ、おおぼとけ」と読む。
 悟りを開いた大仏様は目を開いて、練土までも伝授するって、まさかね。
 挙句。

   見ひらくやさとりの眼大仏
 三千世界芝の海づら       一朝

 三千世界はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「三千世界」の解説」に、

 「仏教の世界観による全宇宙のこと。三千大千世界の略。われわれの住む所は須弥山(しゅみせん)を中心とし、その周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされ、これを一つの小世界という。小世界は、下は風輪から、上は色(しき)界の初禅天(しょぜんてん)(六欲天の上にある四禅天のひとつ)まで、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である。この一小世界を1000集めたのが一つの小千世界であり、この小千世界を1000集めたのが一つの中千世界であり、この中千世界を1000集めたのが一つの大千世界である。その広さ、生成、破壊はすべて第四禅天に同じである。この大千世界は、小・中・大の3種の千世界からできているので三千世界とよばれるのである。先の説明でわかるように、3000の世界の意ではなく、1000の3乗(1000×1000×1000)、すなわち10億の世界を意味する。[高橋 壯]
 『定方晟著『須弥山と極楽』(1973・講談社)』」

とある。日常的には、普通に広いこの世界くらいの意味で用いられる。
 芝というと芝の増上寺が思い浮かぶが、増上寺に大仏はない。
 ただ、延宝元年に鋳造された高さ3.3メートルの大きな梵鐘があることから、当時話題になっていて、これを大仏(おおぼとけ)に見立てたのかもしれない。
 大仏様の目は芝の東京湾を見渡し、釈教をもってして一巻は目出度く終わる。

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