2022年5月6日金曜日

 ラノベの方は、佐々木鏡石さんの『がんばれ農強聖女~聖女の地位と婚約者を奪われた令嬢の農業革命日誌~』はなかなか楽しめた。
 香月美夜さんの『本好きの下剋上』のようないわゆる転生者の知識チートもなければ、餅月望さんの『ティアムーン帝国物語』のような死に戻りもなく、魔法も使わない。強いて言えば先代の聖女に知識チートがあったのかもしれない、ぐらいのところか。主人公の実力による「雨にも負けず」的な物語は珍しい。
 「心の貧しさ」というのが一つのテーマのようにも見える。筆者も某多言語ラボ活動で、しがないドラックドライバーで金も暇もなく、ひたすら海外ホームステイを拒否する活動スタイルでいたら、「心が貧しい」と言われたことがある。「心の貧しさ」は他人事ではない。
 今の日本ではすっかり克服されたが、今もフロンティアに残る飢餓と隣り合わせの貧しさというのは、何か新しいことに挑戦したくても、失敗が死を意味する。自分の死だけならいいが、家族や大切な人も共に死なせることになる。それは自分の喉元にナイフを突きつけられていて、家族も皆人質に取られている状態だ。そこで一体何ができると言うのか。
 ネパールで新しい品種を広めたりして農業改革をやっている日本人が、前にテレビで紹介されていた。立派なことだと思うが、ただそれは日本人だからできたんだと思った。失敗しても帰る所がある。その安心感から思い切った実験もできる。でも、失敗が死を意味する現地の農民には絶対にできないことだ。
 アフガニスタンの中村さんも、帰る所があるから思い切ったことも出来たんだと思う。豊かな国に生まれるという恩恵無くして有り得なかったことだ。
 我々はネパールやアフガニスタンに行くことはできなくても、日本の豊かさを維持することはできる。銃後を守るというのも立派な仕事ではないかと思う。
 『がんばれ農強聖女』も貴族としての地位なくしてはできないことだ。失敗ができる豊かさというのは素晴らしいものだ。基本「聖女」は生活に困る人であってはいけない。

 では引き続き『普及版俳書大系3 蕉門俳諧前集上巻』(一九二八、春秋社)から、『続虚栗』の、「蚊足にすすめられて」という前書きのある蚊足・其角の両吟歌仙を読んでみようと思う。
 発句は

   蚊足にすすめられて
 郭公麦つく臼にこしかけて

だが、作者名がない。
 脇の所に、

 郭公麦つく臼にこしかけて
   たそがれ渡る青鷺の空   其角

とある。「て」留で通常の発句の体でない所から、其角が詠んだ俳諧歌を発句と脇の代わりにするということか。狂歌というほど笑いを狙ったものでもなく、「麦つく臼」が雅語でないので、「俳諧歌」が適切なように思える。
 青鷺は「青鷺の駒」であれば和歌にも詠まれている。これは馬の毛の色で、青毛はほとんど黒なので、青鷺の色に近いというと原毛色が青毛の薄墨毛ではないかと思う。
 其角の歌の「青鷺の空」も馬の青毛の薄墨毛のような色の空とも取れる。夕暮れの薄暗い頃だと、空が青鷺色になる。それに鳥の青鷺の渡るを掛けているのではないかと思う。

 春深みゆるぎの森の下草の
     茂みにはむや青鷺の駒
              花園左大臣家小大進(夫木抄)
 ひまもあらばをぐろに立てる青鷺の
     こまごまとこそ言はまほしけれ
              源俊頼(夫木抄)
 見渡せば皆青鷺の毛梳めるを
     引き連ねたる馬つかさかな
              藤原信実(夫木抄)

などの歌がある。
 第三。

   たそがれ渡る青鷺の空
 川風や衣干ス揖にそよぐらん   其角

 「衣」は「きぬ」、「揖」は「かい」とルビがある。
 青鷺に水辺の景を添える。
 四句目。

   川風や衣干ス揖にそよぐらん
 樽をつくして皆童なり      蚊足

 「尽す」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「尽・竭・殫」の解説に、

 「〘他サ五(四)〙 (「つきる(尽)」の他動詞形)
  ① つきるようにする。
  (イ) なくする。終わりにする。
  ※万葉(8C後)一一・二四四二「大土は採りつくすとも世の中の尽(つくし)得ぬ物は恋にしありけり」
  ※地蔵十輪経元慶七年点(883)四「我等が命を尽(ツクサ)むと欲(おも)ひてするにあらずあらむや」
  (ロ) あるかぎり出す。全部出しきる。つきるまでする。
  ※万葉(8C後)四・六九二「うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽(つくさ)く思へば」
  ※源氏(1001‐14頃)桐壺「鈴虫の声のかぎりをつくしてもながき夜あかずふるなみだ哉」
  ② その極まで達する。できるかぎりする。きわめる。
  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)五「永く苦海を竭(ツクシ)て罪を消除し」
  ※春窓綺話(1884)〈高田早苗・坪内逍遙・天野為之訳〉一「凞々たる歓楽を罄(ツ)くさんが為めのみ」
  ③ (動詞の連用形に付いて) 十分にする、すっかりする、余すところなくするの意を添える。「言いつくす」「書きつくす」など。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Yomi(ヨミ) tçucusu(ツクス)。モノヲ cuitçucusu(クイツクス)」
  ※日本読本(1887)〈新保磐次〉五「マッチの焔を石油の中に落したるが、忽満室の火となり、遂にその町を類焼し尽しぬ」
  ④ (「力を尽くす」などを略した表現で) 他のもののために働く。人のために力を出す。
  ※真善美日本人(1891)〈三宅雪嶺〉国民論派〈陸実〉「個人が国家に対して竭すべきの義務あるが如く」
  ⑤ (「意を尽くす」などを略した表現で) 十分に表現する。くわしく述べる。
  ※浄瑠璃・傾城反魂香(1708頃)中「口でさへつくされぬ筆には中々まはらぬと」
  ⑥ 心をよせる。熱をあげる。
  ※浮世草子・傾城歌三味線(1732)二「地の女中にはしゃれたる奥様、旦那様のつくさるる相肩の太夫がな、見にござるであらふと」
  ⑦ (「あんだらつくす」「阿呆(あほう)をつくす」「馬鹿をつくす」などの略から) 「言う」「する」の意の俗語となる。
  (イ) 「言う」をののしっていう語。ぬかす。ほざく。〔評判記・色道大鏡(1678)〕
  ※洒落本・色深睡夢(1826)下「大(おほ)ふうな事、つくしやがって」
  (ロ) 「する」をののしっていう語。しやがる。しくさる。
  ※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)上「起請をとりかはすからは偽りは申さないと存じ、つくす程にける程に」

とある。
 ここでは元の①の意味で、樽の舟に乗って遊ぶのを終わらせ、櫂に濡れた着物を干していたのは、みんな子供だったという意味だと思う。
 五句目。

   樽をつくして皆童なり
 初秋の潤はわきて月なれや    蚊足

 初秋の七月に閏月が来ると、秋の満月が四回あることになる。月見が四回出来ると言うので、樽の酒が尽きるまで読んで、みんな子供のようだ、となる。
 ただ、この比実際に七月潤の年はなく、延宝八年に八月潤があった。元禄四年に再び八月潤がある。
 六句目。

   初秋の潤はわきて月なれや
 扇の日記を捨る関の戸      其角

 日記は「にき」とルビがある。扇の日記は夏の暑い時の日記ということで、秋の月の季節に終わる。
 月に扇は、

 なれなれて秋に扇をおく露の
     色もうらめし閨の月影
              俊成女(新勅撰集)

の歌がある。
 初裏、七句目。

   扇の日記を捨る関の戸
 萩のねに所の土を包み行     蚊足

 萩の根を土で包んだまま運び、関の戸を越えるというと、コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「橘為仲」の解説」にある、

 「晩年に陸奥守として赴任の際,能因の歌に敬意を表し衣装を改めて白河の関を通り,上京の折には宮城野の萩を長櫃12合に入れて運んだと伝えられるなど,風雅に執した人物として知られた。」

のことか。ウィキペディアに「日記として『橘為仲記』(散逸)があった。」とある。散逸したのではなく、関を越える時に捨てていたことにしたか。
 八句目。

   萩のねに所の土を包み行
 僧と咄して沓静なる       其角

 お寺に萩を植えに行くと、僧が大勢歩いていて、その靴の音が響いているが、僧に話しかけると静かになる。
 僧の沓というと、芭蕉の『野ざらし紀行』の東大寺二月堂での、

 水取りや氷の僧の沓の音     芭蕉

の句がある。「僧の沓の氷の音」の倒置。
 九句目。

   僧と咄して沓静なる
 瓦工おりよりといそぐ入相に   蚊足

 工は「ふき」とルビがある。瓦葺の職人のことであろう。僧に話しかけて僧の沓音が止まる。
 十句目。

   瓦工おりよりといそぐ入相に
 神鳴りつべき雲を詠て      其角

 入道雲がむくむくと沸き起こり、夕立になりそうなので瓦工も作業を急ぐ。
 十一句目。

   神鳴りつべき雲を詠て
 折ふしの狂惑つらき命哉     蚊足

 狂惑は「きちがひ」とルビがある。「きゃうわく」と読んだ場合の意味は、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「狂惑」の解説」に、

 「① 正気を失い惑うこと。狂乱。また、常軌を逸した言動をとること。
  ※楓軒文書纂一一・香取文書‐建久五年(1194)五月日・関白藤原兼実家政所下文案「助康如レ此以二虚妄一為レ宗、以二狂惑一為レ業」 〔荀子‐君道〕
  ② とんでもなく馬鹿げていること。たわけていること。
  ※袋草紙(1157‐58頃か)上「なけやなけ蓬が杣の蛬(きりぎりす)更け行く秋はげにぞかなしき 長能云、狂惑のやつなり、蓬が杣と云事やは有と云々」
  ③ =きょうわく(誑惑)
  ※米沢本沙石集(1283)五本「誰れか狂惑(キャウワク)し、誰れか狂惑せられん」

とある。
 「折節」とあるから今でいう精神病ではなく、雷を恐れて発作的にパニックに陥って、とんでもないことをしてしまう人のことであろう。
 十二句目。

   折ふしの狂惑つらき命哉
 嶋原近き吾草の庵        其角

 京都嶋原の遊郭の側に庵を構えていると、遊郭の乱痴気騒ぎが聞こえてきて修行に身が入らない。

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