きょうは旧暦師走の二十九日で小晦日。明日は旧正月になる。
沖縄の事件はなぜかマスコミや人権派と称する人達が沈黙している。ヤンキーを差別しているのが誰なのかがよくわかる。人権派は左翼が利用できる反政府暴動しか支持しない。海の向こうの黒人には声を上げても、日本人の人権には声を上げない。
日本ではヒットラーの喩えはかなり頻繁に用いられる。日本は全員一致主義というのがあって、それを無視すると過半数以上の賛成があっても独裁者だのヒットラーだの言われる。政治家に対してこれが用いられるときは、大概少数派の左翼の意見が通らない時だ。
多数決=独裁。少数派の自分たちの意見で政治を行う=民主主義。これが左翼の論理だ。
今回の菅(かん)さんはそれとちょっと違っている。まあ、維新の会自体そんな多数派でないし、そんな力を持っているわけじゃないからね。大阪都構想も二回も住民投票で否決されているし。
その非力な政党を非難するのに、「弁舌の巧み」を理由にヒットラーだなんて言っている。演説が上手い人は皆ヒットラーなのかい。
日本はナチスドイツの同盟国だったし、何よりも国内のユダヤ人が極めて少ない。山本七平の『日本人とユダヤ人』だって、本物のユダヤ人がいないから書けたというもんだろう。
だから、ナチスに対するタブーはかなり世界でも低い方だろう。左翼の人達が安易にヒットラーの喩えを使うのは、そのせいなんだろうな。
まあ、立件の人達がみんな菅さんをかばっているところを見ると、ヒットラーに喩えることが悪いという認識はまったくないんだろうな。自分の意見が通らないとすぐに「ヒットラーだーーーーっ」て騒ぎだす。まあ、これが日本の人権派という人たちだ。
あと、マスコミは連日のように値上げの報道をしている。日本では物価上昇とデフレが同時に起きているようだ。この前米が五キロ千円になってたと喜んでたんだが。大根一本も白菜一個も百円で買えるし、豚肉も百グラム百円を切っている。これで鍋を作るのが今の楽しみ。
それでは「俳諧秘」の続き。
「脇句
ひこからみといふ事脇に有。たとへば、藤などの発句に、松を縁にして這かかる物なり。然間、一句の内に、松などを取合する也。唯、花を賞翫の発句に植物添事、いらぬ事也。又、口伝大かがみ、小かがみ、病者の所にて、蔦などすべからず。山に霞霧などつつみたるやうにせず。かやうの事也。」(俳諧秘)
「ひこからみ」はよくわからないが、「ひこばえ」と同系統の言葉か。「ひこばえ」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「ひこばえ」の解説」に、
「植木の管理上の用語。樹木の根元にある不定芽から出る徒長枝のことで、一名やごともいう。成長力が旺盛(おうせい)なため幹の肥大が悪くなるので、ひこばえが伸び出したらすぐに切除することが望ましい。「ひこ」は曽孫(ひこ)からきた語。やごはその愛称で、地方によってはやご吹きともよぶ。[堀 保男]」
とある。ここから推測すると、余計な枝が生えてきて絡みつく、という意味と思われる。
藤の発句に松を添えると、松の木に絡んだ藤という趣向になる。
紫の藤さく松のこすゑには
もとの緑もみえずぞありける
源順(拾遺集)
みなそこの色さへ深き松が枝に
ちとせをかねてさける藤波
よみ人しらず(後撰集)
などの歌がある。
ただ、一応礼儀としては、脇は発句の主を立てなければいけないので、藤に松と張り合うべきではないということになる。
「然間、一句の内に、松などを取合する也。」というのは、松に絡まる藤の趣向発句の主が意図しているなら、発句の中に藤と松を取り合わせるはずなので、藤に松を読んでないという時点で藤に松の趣向の句ではないと判断すべき、ということだろう。
発句が花であれば、別の花を出して張り合うものでもない、というのも基本的には発句の主を立てろ、ということで、やはりマナーの問題になる。特に発句が大名・家老などの偉い人である場合は注意ということだろう。
「口伝大かがみ、小かがみ」は不明。病者に蔦はやはり縁起悪いということだろう。
山に霞霧も、山の美しい景の発句に、それを霧で隠すような脇はいかがなものかということ。
これも天の香具山に霞みたなびくは有りのように思えるが、ならば発句に天の香具山の霞が詠まれるべきで、それがないなら別の趣向と判断しろということだろう。
仮に藤に松、香具山に霞みの松と霞を詠み損ねたなら、脇でそれを補うとその不備を咎めたことになり、それも避けるべきだろう。
「第三て留常の事也。らん、もなしに留り、三ツは習ひ有。
発句、脇、うたがひか、未来か、下知ならば、右三ツの留めくるしからず。発句、脇、落着の時はせぬ也。是習也。」(俳諧秘)
て留はどんな時でも用いることができるが、「らん」「もなし」「に」の三つは制限があり、発句、脇、落着の時は用いない、としている。
第三の留め字が発句に拘束される、というのは諸説あったのか、宗因の『俳諧無言抄』には、
「又うたがひの切字の発句の時、第三はね字ならず。うたがひの句は二句去ゆへ也。
又、うたがひの発句に、脇にこしのてもじ有は、第三はてとまりもはね字もならぬやうの時、もなしとまりにとまり也。
さあらずともむまれ付たるにとまりも、なしとまりならばくるしからず。
又文字にてとむる事有也。惣じてむかしは句の留りの沙汰なし。」
とある。発句に疑いの切れ字(「や」など)があれば、第三で「らん」留はしない。こちらの方がまだ分かりやすい。
いずれにせよ連歌の時代にはこういう細かいルールはない。
松意編『談林十百韻』を実際に見てみよう。
第一百韻
されば爰に談林の木あり梅の花 梅翁
世俗眠りをさますうぐひす 雪柴
朝霞たばこの煙よこおれて 在色
発句、脇ともに落着で第三は「て」留になる。
第二百韻
青からし目をおどろかす有様也 松臼
磯うつなみのその鮒鱠 ト尺
客帆の台所ふねかすみ来て 一鐵
発句、脇ともに落着で第三は「て」留になる。
第三百韻
いさ折て人中見せん山桜 雪柴
懐そたちの谷のさわらび 正友
鼻紙の白雪残る方もなし 松意
発句は未来で「し」留になる。
第四百韻
郭公来べき宵也頭痛持 在色
高まくらにて夏山の月 松意
凉風や一句のよせい吟ずらん 正友
発句、脇ともに落着で第三は「らん」留になる。
第五百韻
くつろぐや凡天下の下涼み ト尺
民のかまどはあふぎ一本 松臼
はやりふし感ぜぬ者やなかるらん 一朝
発句に疑いの「や」があり、第三に「や」とあって「らん」留になっている。これは「又うたがひの切字の発句の時、第三はね字ならず。」に反している。
ということで、宗因門の方でもそんなに厳密なものではなかったのではないかと思われる。
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