夜中にいきなり緊急速報エリアメールで起こされて、その後も五分間隔で鳴り続ける。
夕方のニュースでトンガの火山噴火のことはニュースになったが、「津波の心配はない」を繰り返すだけで、肝心なトンガやその周辺でどういう被害が出ているかという情報が何もなく、もやもやしていたところだ。
津波が来るとしても0.2m?これってみんなを叩き起こす程のことなのか。それよりもトンガの人達を心配する気持ちがないのか。
今日になっても、トンガの情報は入らない。津波はそれほど壊滅的な被害を出したのではなさそうだが、火砕流とかは大丈夫だったのか。
コロナの方は一月九日、十日をピークにして実効再生産数が下がり、増加のペースがダウンしている。良い兆候だ。
それでは「俳諧秘」の続き。
「本歌本語を用て心ヲ添有
女郎花たとへばあはの内侍かな 季吟
是は、かの蒸る粟のごとしといへるを、内侍と云そへたり。」(俳諧秘)
「本語」は本説と同じと考えていいだろう。この場合の粟は「邯鄲の夢」、粟一炊の夢を本説としたものであろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「邯鄲の夢」の解説」には、
「人の世の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。「一炊(いっすい)の夢」「邯鄲夢の枕(まくら)」「盧生(ろせい)の夢」などともいう。中国唐の開元年間(713~741)、盧生という貧乏な青年が、趙(ちょう)の都邯鄲で道士呂翁(りょおう)と会い、呂翁が懐中していた、栄華が思いのままになるという不思議な枕を借り、うたた寝をする間に、50余年の富貴を極めた一生の夢をみることができたが、夢から覚めてみると、宿の亭主が先ほどから炊いていた黄粱(こうりゃん)(粟(あわ))がまだできあがっていなかった、という李泌(りひつ)作の『枕中記(ちんちゅうき)』の故事による。[田所義行]」
とあり、『邯鄲』は謡曲にもなっている。
内侍は「あはの内侍(阿波内侍)」で「あは」は掛詞になる。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「阿波内侍」の解説」に、
「生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とするものと,信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが,実在は確認できない。文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。(櫻井陽子)」
とある。句の方では平家一門の繁栄を邯鄲の粟一炊の夢として、平家の盛衰を見守ってきた阿波内侍のイメージを重ねている。
「月になけ同じくは今郭公
是は、月になけをなじ雲井のほととぎす、と云をとれり。同敷は今句の働き也。
月見れば千々に物こそかなしけれ我身ひとつの秋にはあらねど、というをとりて、長明
詠むれば千々に物思ふ秋にまで
我身ひとつの峯の松風
是は、かのみつねの我身の秋にはあらねど、といへるにあたりて、その詠こし月に、また我身ひとりの秋也、とこたへ侍る贈答の各なりとぞ。」(俳諧秘)
「月になけをなじ雲井のほととぎす」は不明。日文研の和歌検索にはかからなかった。似ているものには、
月になけ過ぎゆく秋のきりぎりす
なかはもいまは有明の空
藤原雅経(明日香井集)
ほととぎす雲のいづくにやすらひて
明方ちかき月になくらむ
後鳥羽院(後鳥羽院御集)
などがある。こうした歌の心から、我も同じくと同意して、「月になけ同じくは今郭公」となる。興行開始の挨拶ならば、我々も今こそ鳴こうではないか、という意味になる。
長明の「詠むれば」の歌は、
月前松風
ながむれば千々にもの思ふ月にまた
わが身ひとつの峰の松風
鴨長明(新古今集)
で、
月見れば千々にものこそ悲しけれ
我が身ひとつの秋にはあらねど
大江千里(古今集)
を本歌としている。秋は我身一つのものではないけど、月は我身一つ悲しい、という本歌に、峯の松風もまた、と付け加える。大江千里に賦す形になる。
「又、法橋兼載の句に、
まつ人に立枝ややすむ宿の梅
是は、我宿の梅の立枝や見へつらん思ひの外に君が来ませる、といふをとりて、待人のこぬは我宿の梅の立えや其人のために霞みつらん、と人と梅とを恨心を打かえして仕立給へり。
此打かへしていへるにて、心新しく成り侍る。かやうなるも一の格也。」(俳諧秘)
「我宿の」の歌は、
わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひのほかに君が来ませる
平兼盛(拾遺集)
で、これを本歌にして、「まつ人に」(「君が来ませる」のに来ないので、「立ち枝や見えつらむ」の)「立枝」も霞むとなる。となると、発句は「立枝やかすむ」ではないのか。
「君が来る」という本歌の設定を、君が来なくて「かすむ」と打ち返すことで、心が新しくなる。
「又、声をかり、余の物に云たて、或は秀句をかぬるもあり。
治るや神祇霊地の四方の春
なむといつは味奇妙也菊の酒 元隣
此類も世間の格とおなじ。」(俳諧秘)
『新続犬筑波集』巻十一、春上に、
仁義礼智しんとしつけし四方の春
の句がある。この儒教の仁義礼智を神道の神祇霊地に変えて作っている。名前がないのは季吟の句か。
元隣はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「元隣」の解説」に、
「江戸前期の俳人、国学者。山岡氏。字(あざな)は徳甫(とくほ)。別号而慍斎(じうんさい)、洛陽(らくよう)山人、抱甕斎(ほうようさい)。医名は玄水。伊勢(いせ)山田(三重県)の商家の出身。上京して俳諧(はいかい)、国学を北村季吟(きぎん)について修行。また儒学や禅学にも通じ、さらに医学をも修めた。季吟門の逸材で、仮名草子、俳諧、古典注釈などに活躍した。仮名草子作者としては、教訓的随想集『他我(たが)身の上』(1657)や『小さかづき』があり、俳諧関係では『身の楽(らく)千句』『俳諧小式』『歌仙ぞろへ』の編著がある。また日用の家具、文房具を題材とした『宝蔵(たからぐら)』(1671)は、俳文集の嚆矢(こうし)として評価される。ほかに、古典注釈書として『徒然草鉄槌(つれづれぐさてっつい)増補』『鴨長明方丈記(かものちょうめいほうじょうき)』『水鏡抄』『世の中百首註(ちゅう)』などがある。[雲英末雄]」
とある。元句がわからない。
「又、一字をたがへずして用るも有。これも其所によりて、用やう心を格別にして用る也。
伊勢物語に融の大臣のしのぶもぢずり歌も女の返歌に用たる、此心也。
左伝などにも詩を賦すとて、古詩を用たる例あり。或人の物語に桜を見て、
いにしへの奈良のみや此八重桜
此句は、俳言なきやうにきこゆ。され共よくは云まはしたり。
古本歌本語を取用格也。されど是のみにかぎらず、大方此理を以て古人の句をおほく見れば、自然に知る也。
定家卿詞云和歌無師匠唯以旧歌為師
染於心古風習詞先達者唯人不詠之哉」(俳諧秘)
「しのぶもぢずり」の歌は『伊勢物語』第一段にもあり、男の、
春日野の若紫のすり衣
しのぶの乱れ限り知られず
の歌に対して、地の文で、
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
乱れむと思ふ我ならなくに
源融(古今集)
を引用して、「といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」と締めくくっている。これを女の返歌で、源融の歌をそのまま返したと解釈している。
左伝の例はよくわからない。
いにしへの奈良のみや此八重桜
の句は、
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな
伊勢大輔(詞歌集)
の上句の取り成しで、「いにしへの奈良のみや、この八重桜」と読み替える。
最後に定家の「和歌に師匠なし、古歌を以て師匠となす」の言葉を引用し、本歌本説のことも古歌から学べと言って締めくくる。
0 件のコメント:
コメントを投稿