今日は一日雨が降った。
岸田のような調整型の首相は、マスコミや官僚に流されやすく、軸足が定まらないという欠点がある。
コロナ対策でも、このままではやはり去年と同じような厳しい自粛要請に向かう可能性が高い。
去年だったら厳しいコロナ対策を打ち出せば、間違いなく支持率が上がった。ただ今のオミ株では逆に支持率が下がる可能性がある。実際に感染者急増でも街はほとんど今まで通りだ。公共施設の閉鎖ばかりが先走っているが、これは事なかれ主義によるものだ。
維新、国民、立件の中道連合が成立すれば、夏の参議院選では自民党をかなり追い詰めることができるかもしれない。ただ立件には相変わらず革命の夢を捨てきれない人たちがいるから、難しいとは思うが。だから総理大臣になれないんだけどね。
さて、冬の俳諧をもう一つ。元禄三年刊其角編の『いつを昔』から去来・嵐雪・其角の三吟歌仙を見てみよう。三吟と言っても順番に付けて行くのではなく、途中去来の句が何句も続いたりしてかなり変則的な三吟になっている。
発句は、
続みなしぐりの撰びにもれ侍りし
に、首尾年ありて、此集の人足に
くははり侍る。
鴨啼や弓矢を捨て十余年 去来
其角編の『続虚栗』は貞享四年刊で、この年の春には芭蕉・去来・其角・嵐雪による四吟歌仙「久かたや」の巻が作られている。去来の発句もこの頃ということで、貞享三年の冬の句ではないかと思われる。
去来はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「去来」の解説」に、
「江戸中期の俳人。向井氏。通称平次郎、字(あざな)は元淵、庵号(あんごう)落柿舎(らくししゃ)。儒医元升の次男(兄元端、妹千代など9人兄妹)として肥前国長崎に生まれ、8歳のとき、父の移住に伴い上京。一時、福岡の母方の叔父久米(くめ)家の養子となって武芸の道を学び、その奥儀を極めたが、24、25歳のころ弓矢を捨てて帰京し、陰陽道(おんみょうどう)の学をもって堂上家に仕えた。」
とあるように、「弓矢を捨て」は二十四、五の時のことのようだ。
去来は慶安四年(一六五一年)の生まれで、数え二十四というと延宝二年(一六七四年)になる。貞享三年が一六八六年なので十余年と計算が合う。
句の方は鴨に弓を引くこともなくなったという意味で、かならずしも風流の道に入ったという意味ではない。鴨の声を聞きながら、あれから十年以上経ったかという感慨以上の意味はないと思うし、それだけで十分だと思う。
前書きの「首尾年ありて」は一巻の完成までに何年もかかったということで、貞享三年にはおそらく去来・嵐雪・其角による表六句までだったのだろう。
そのあと去来が一人で初裏の六句を付け、懐紙は書簡で京と江戸を行き来したのではないかと思う。十三句目から二十四句目までは江戸で其角と嵐雪が付け、その後二十八句目までを去来が付け、二十九、三十、三十一は江戸、三十二、三十三は京、再び江戸で首尾となったのであろう。
脇は、
鴨啼や弓矢を捨て十余年
刃バほそらぬ霜の小刀 嵐雪
「刃バ」と「バ」を補っているので、ここは「やいば」で良いのだろう。「ほそらぬ」というのは錆びて欠けたりはしていないという意味で、武士だった頃の魂は未だに旅に持ち歩く小刀に残っている、とする。「霜」は放り込みだが、「氷の刃」という言い回しもあるように、今でも研ぎ澄まされているという意味になる。
第三。
刃バほそらぬ霜の小刀
はらはらと栗やく柴の圓居して 其角
圓居は「まどゐ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「円居」の解説」に、
「① 集まってまるく居並ぶこと。くるまざ。団欒(だんらん)。
※古今(905‐914)雑上・八六四「おもふどちまとゐせるよは唐錦たたまくをしき物にぞありける〈よみ人しらず〉」
② ひと所に集まり会すること。会合。特に、親しい者同士の楽しい集まり。団欒。
※神楽歌(9C後)採物・榊「〈本〉榊葉の 香をかぐはしみ 求め来れば 八十氏人ぞ 万止為(マトヰ)せりける 万止為(マトヰ)せりける」
とある。
栗はそのまま火にかけると破裂するので、あらかじめ切れ込みを入れておく。前句の小刀をそれに用いるものとする。
四句目。
はらはらと栗やく柴の圓居して
影くるはする龍-骨-車の月 去来
龍骨車はウィキペディアに、
「竜骨車(りゅうこつしゃ)は、農業用水を低地の用水路から汲み上げ、高地の水田に灌漑せしめる木製の揚水機。中国で発明されたとされ、日本にも伝来した。その形状が竜の骨格に似るところからの命名。
水樋の中で、数多くの板を取り付けた無限軌道を回転させ、樋内の用水を掻きあげる。無限軌道は、上下2個の車輪で回転させるが、うち上端の1個の車輪を2人が相対して踏み、回転させる。
‥‥略‥‥
日本では寛文年中(17世紀頃)に大坂農人橋において踏車が発明され、宝暦から安永年間(18世紀頃)に普及したことにより駆逐された。これは竜骨車の欠点に加え、踏車の方が、仕組みがシンプルであり、農民にとっては単純な構造品の方が使い勝手が良く手頃であったからと一般では考えられている。」
とある。この踏車の方は、元禄五年の「打よりて」の巻二十句目に、
愚なる和尚も友を秋の庵
高みに水を揚る箱戸樋 黄山
と詠まれている。
去来の句は、竜骨車が水を汲み上げるので水に映る月が乱れている、という意味であろう。
五句目。
影くるはする龍-骨-車の月
きりぎりす螽も游ぐ山水に 嵐雪
螽はイナゴ。「游ぐ」は「およぐ」だが、本当に水に浮かんでいるのではなく、水の周りで遊んでいるという意味だろう。
六句目。
きりぎりす螽も游ぐ山水に
盞付ケて鶴はなちやる 其角
中国の高士の架空の遊覧にする。貞享二年の鳴海知足亭での「杜若」の巻、二十句目に、
燕に短冊つけて放チやり
亀盞を背負さざなみ 芭蕉
の句があったが、ここでは鶴に盃を背負わせる。
初裏、七句目。
盞付ケて鶴はなちやる
うれしくも顔見あはする簾の間 去来
ここから去来の句が続く。
婚礼の祝言であろう。お目出度い。
八句目。
うれしくも顔見あはする簾の間
また手枕を入かへて寝る 去来
交互に手枕し合いながら、纏き寝する。万葉集の趣向か。
九句目。
また手枕を入かへて寝る
旅衣まてども馬の出がたき 去来
旅立つのだけど馬の準備がなかなか整わないので二度寝する。
十句目。
旅衣まてども馬の出がたき
留守おほかりし里の麦刈 去来
宿場の馬ではなく、農家の馬を借りての旅立ちとする。芭蕉も『奥の細道』の那須野で馬を借りている。
あいにく馬は麦刈の方で使われていて、こちらに回してくれない。
十一句目。
留守おほかりし里の麦刈
誰が子ぞ幟立置雨の中 去来
端午の節句の幟であろう。幟というと今は鯉幟だが、鯉幟が広まるのはもう少し後になる。この頃は、武家は軍に使う旗幟を立て、庶民は絵の描いた紙の幟を立てた。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟 芭蕉
は佐藤庄司の旧跡の「義経の太刀・弁慶が笈」を見た後だったので、それを紙幟に飾れ、という句だった。
紙幟だから、雨が降ればボロボロになる。麦刈で留守にしている間に雨が降り出して、こんなことになってしまった。
十二句目。
誰が子ぞ幟立置雨の中
平家の陣を笑う浦人 去来
前句の幟を軍の幟として、都落ちした平家の軍隊を見て、浦人が笑う。
ただ、それで源氏の軍に浅瀬の場所を教えたりすると、「良いことを教えてもらった。だがこのことを他に知られるわけもいかない」と言ってその場で斬られたりする。
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