オミ株が最初に報告されたのは去年の11月8日。まだ二ヶ月ちょっとしか経っていない。たった二ヶ月で一体どれくらいのことが分かっているのかということで、オミ株の情報の多くはまだ仮説の域を出ていないというのが現状であろう。
オミ株の後遺症に対する懸念は、今の段階ではデルタ以前のコロナからの類推による部分が大きい。類推という考え方は、コロナの初期の段階で、従来のコロナの常識からの類推が武漢株の過小評価を生んだ前例がある。
後遺症がどの程度の期間残るかについては、その期間が経過してみなければわからない。ただ、世界にこれだけ多くの感染者がいるんだから、そう遠くない時期にわかってくるはずだ。今は類推ではなく、これから上がってくる報告を待たなくてはならない。
最初の武漢肺炎の頃から今に至るまで、コロナは小刻みに変異を繰り返し、その都度状況は変化している。残念ながら科学的なエビデンスが確定するのを待ってはくれない。わからなくても我々は決断を下さなくてはならない。「南泉斬猫」のようなものだ。
混乱はどうしたって生じる。ただ、不満はいろいろあっても、混乱が暴力になって、コロナ以外で多くの人が死ぬようなことは避けなくてはならない。
暴力ではなく、あくまで多数決で解決できる文化を守らなくてはならない。
旧暦師走もまだ半月以上あるということで、この辺で俳論の方も読んでいこうと思う。
選んでみたのはネット上にあるPDFファイルの「翻刻 立命館大学図書館 西園寺文庫所蔵『季吟法印俳諧秘』の紹介」で、『俳諧秘』には寛保元年(一七四一年)の奥書きがある。季吟没後三十六年になる。
なお、季吟は芭蕉の師匠で、かなり年上なのにもかかわらず八十まで生きて、芭蕉の方が先に亡くなっている。
「第一 賦物之事
連歌、山船人木路五ケといふ。其他、唐神垣嵐此衣など、千変万化の字小賦物と云也。委は賦物集とて、宗伊の定をかれ侍れば種々の子細有。伝授、第三までに通はぬ字を賦する也。追善の連歌、経文の連歌、夢想の連歌など書ことあり。されども、当流には賦物をとらず。ただ俳諧之連歌と五文字にて、はし書する也。」(俳諧秘)
連歌にはタイトルに賦物(ふしもの)が付く。宗祇・肖柏・宗長による『水無瀬三吟』には、「水無瀬三吟何人百韻」と「何人百韻」がタイトルについている。この「何人」が賦物で、発句が、
雪ながら山もと霞む夕べかな 宗祇
なので、「山船人木路」あるいは「唐神垣嵐此衣」のなかの「山」の字が入っている。
同じメンバーによる『湯山三吟』も「湯山三吟何人百韻」で、発句に、
うす雪に木葉色こき山路哉 肖柏
と、やはり「山」の字がある。
賦物は紹巴の『連歌初学抄』を見ると、
山何 何路 何木 何人 何船 以上五ケ之内最可用之 朝何 夕何 花何 花之何 唐何 青何 白何 手何 下何 初何 御何 片何 薄何 何風 何水 何屋 何所 何田 何鳥 何馬 何色 何手 何心 何衣 何文 何物 此外旧賦物雖有数多於不宜者略之 何世 千何 玉何 以上新造 一字露顕 二字反音 三字中略 四字上下略
というように列挙されていて、「山何」の「何」の部分に入る字として、
石 林 原 郭公 鳥 路 主 出 入 蕨 風 隠 河 影 垣 田 橘 椿 梨 卯木 井 雲 草 下 松 守 眉 藍 嵐 桜 里 沢 木 霧 雉 岸 衣 北 雪 百合 メグリ 水 柴 人 姫 女 蝉 関 菅 手 鳩 畑 鬘 産 榊 木綿 使 祭 煙 寺 声
といった文字が挙げられている。
これが「賦物集とて、宗伊の定をかれ侍れば種々の子細有」の内容と思われる。
季吟の時代には連歌の方でも簡略化されて、「山何、何船、何人、何木、何路」以外はほとんど用いられなくなっていたのだろう。「以上五ケ之内最可用之」とあるように、紹巴の時代でもこの五つが多かったようだ。
これは連歌の話で、俳諧は賦物を取らずに「俳諧之連歌」とのみ記すとある。
蕉門では、
貞享二年と九月二日東武小石川ニおゐて興行
賦花何俳諧之連歌
涼しさの凝くだくるか水車 清風
が、珍しく賦物と「俳諧之連歌」が両方記されているが、これは連歌式目の「古式」の基づくという異例のものだった。
その他に、大津奇香亭での、
元禄元歳戊辰六月五日會
俳諧之連歌
皷子花の短夜ねぶる昼間哉 芭蕉
貞享五戊辰七月廿日
於竹葉軒
長虹興行
俳諧之連歌
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
元禄二年十一月三日伊賀半残亭での、
霜月三日
俳諧之連歌
とりどりのけしきあつむる時雨哉 沢雉
など、「俳諧之連歌」と付くものが時折見られる。芭蕉もかつての季吟の門弟として興行の席ではこれを守っていて、大概のものは編纂の過程で削られていたのかもしれない。
賦物は基本的には雅語になる文字の組み合わせを用いる。ただ、延宝の俳諧ではあえて俗語の賦物を試みたか、
延宝五年冬
二字返音之百韻三吟
あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青
は「二字返音」、つまり二文字をひっくりかせということだから、ここでは「ふぐ」をひっくり返して「ぐふ」、つまり愚夫に賦すということだろう。
延宝六之春
三字中略之百韻三吟
さぞな都浄瑠璃小哥はここの花 信章
の「三字中略」は、「都」の三字「みやこ」の中を略せば「みこ」になる。巫女に賦す百韻になる。
延宝六年之春
飯何之百韻三吟
物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
は以前読んだ時に、「飯物」つまり「召し物」着物のに賦すとしたが、雅語にこだわらないなら、「飯蛸(いいだこ)」に賦すとした方が良いかもしれない。
「追善の連歌、経文の連歌、夢想の連歌など書ことあり」とあるのは、通常の連歌と性質が違うということで記した方がいいという意味だろう。
寛文五年冬の「宗房」の名前が唯一見える「貞徳翁十三回忌追善俳諧」にも「追善俳諧」が明記されている。また、芭蕉が没した時に木曽塚で行われた百韻興行にも、「元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧」というタイトルがついている。
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