筆者はいじめる奴を「病んでる」と思ったことは一度もない。
人を「病んでる」なんてレッテル貼って断罪する発想が、そもそもいじめなんではないかと思う。
いじめは生存競争の自然な姿で、誰でも知らないうちにいじめる側になっている。いじめられた時だけ気付いて、いじめたことには気づかない。それが人間だ。
THE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」にもあるように、「弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩く」で、いじめる奴らももっと強い奴らからいじめられている。上のカーストの奴らの傲慢が中層下層を圧迫し、それが最下層にまで降りてくるといじめも悲惨なものになる。これが世の中だ。
まあ、あのドラマは「たった一つの真実なんてない」と言っているから、いじめる奴が病んでいるというのも、一つの見方ではあるけどね。
あと、いじめられていた人に言っておきたい。自分の心の傷を絶対に忘れるな。目を背けたらお前は終わる。
それでは「俳諧秘」の続き。
「第四 無心所着の体
無心所着といへるは、和歌よりも難ずること也。其有様心を着る所なし。一首にしかとしたる体なきなり。
八雲御抄云、誰そぞろとあやしくよめば、その姿なきものなり。
わぎもこがひたいにおふるすぐろくの
ことひのうしのくらのうへのかさ
はいかいにも、
花は根にかへるの声や先ばしり
足引の山さるや月のかつらの木
これらの句、云かけのみに心を入て、何共聞へず。平句など数不知侍れ共、前句にまぎれて一句立やうなれば、誰も気を付ず。」(俳諧秘)
無心所着はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「無心所著」の解説」に、
「〘名〙 各句ごとに全く関連のない事をいい、全体としてまとまった意味をなさない歌。わけのわからない歌。
※無名抄(1211頃)「あるは又、おぼつかなく心こもりてよまんとするほどに、はてにはみづからもえ心えず、たがはぬ無心所着になりぬ」
[補注]「万葉‐三八三八・題詞」に「無二心所一レ著歌二首」とある。」
とある。
この「万葉‐三八三八」は岩波文庫の『新訂万葉集 下』では、
心の著く所無き歌二首
吾妹子が額(ぬか)に生ひたる双六の
牡牛(ことひのうし)のくらの上の瘡
吾背子が犢鼻(たふさぎ)にする圓石(つぶれいし)の
吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸有(さがれ)る
右の歌は、舎人親王侍座に令せて曰く、もし由る所無き歌を作る人あ
らば、賜ふに銭帛を以ちてせむとのたまひき。時に大舎人安倍朝臣子
祖父、乃ちこの歌を作りて献上りしかば、登時募れりし物鏡二千文を
給ひき。
とある。要するに余興としてわざと意味のない歌を作らせたわけだ。
意図的に意味を生じないように、通常の文脈から外れる言葉をあえて選び出して作っているから、近代のシュールレアリズムの自動記述とは異なる。
吾妹子の方は「吾妹子が額(ぬか)に生ひたる」まで作って、普通なら角を連想する所を、まったく関係ない「双六」に変える。ただ、角のイメージが暗に残っているため「牡牛(ことひのうし)のくら」と展開していて、鞍にあるはずのない「瘡」で結んでいるが、冒頭の「額(ぬか)に生ひたる」の瘡なら意味を持つ。
つまり、この歌は、
吾妹子が額(ぬか)に生ひたる角ふたつ
牡牛(ことひのうし)のくらの上に居り
なら意味が通じる。「額(ぬか)に生ひたる角ふたつ」が「牡牛(ことひのうし)」を導き出す序詞の役割を果たす。
つまり、和歌に習熟した人が、わざと一部言葉を変えて意味不明にしたと見ていい。
これは例えば、
電柱はたんぽぽのやうな月を飾り
もう夜あけである事を示す
中野嘉一
のような、近代シュールレアリズムの影響を受けた歌とは明らかに異なる。この歌は、基本的には有明を詠んだ歌だが、月の色を蒲公英に喩え、それにススキならぬ電柱をあしらい、夜が明けてゆくと、奇抜な比喩を除けばわりと普通の歌だというのがわかる。
あくまで意味の有る歌を作ろうという意図が感じられ、無心所着とは言えない。
無心所着が歌学で難ずべきものだとすれば、それは技術のなさによって意味不明になってしまったときであろう。
無心という言葉は、近代では邪心や欲得のないという良い意味で用いられることが多いが、本来は「意味がない」という意味で用いられることが多かった。「こころ」には「意味」という意味があった。
花は根にかへるの声や先ばしり
の句は、「心あまりてことばたらず」の悪い方の例だろう。作意が強くて技量が追い付かない、いわば企画倒れの句だ。
花は根に帰るは花が散ることで、それを死の暗示で「土に帰る」から唐突に蛙を導き出し、晩春の蛙の声が先走って聞こえてくる、というものだ。
足引の山さるや月のかつらの木
の句も、足引きの山から、月に泣く山猿の声を導き出し、その月には古来桂の木があるとされている。月に叶わぬ思いを抱いて泣く猿の声の悲しさは、古来漢詩にも詠まれてきた。ただ、「足引の山さる」「月のかつらの木」の作意が過ぎて、その情が伝わりにくくなっている。
「第五 歌之制詞はいかいにも
古人此詞に粉骨したる詞なり。
月やあらぬ 霞かねたる ほのぼのとあかし
などいへる詞也。
制の詞とて一冊有也。有が中にも家隆の歌おほし。され共、此一冊に限べからず。
近代の歌也とも、作者ふかく思ひ入たる詞取べからず。
久かたの月 をしてるや難波 足引の山鳥
の類なり。
同じ人丸の歌ながら、足引の山鳥はまくら詞也。幾度よみてもくるしからず。ほのぼのとあかしの歌は人丸ふかく思ひ入、珍しき景気をつらねし故也。
かやうの詞を主有詞といへり。霞を衣にたとへ、色葉をいろはにたとへ、霜を柱などの類、千度万度も新敷く、一言さへくはへばくるしからず。
俳諧平句ニも、
稀にあふ夜をばまん丸ねもせいで
玉子のおやかいそぐきぬぎぬ 貞徳
ま虫のさたはおかしませとよ
見るににくへの字戴ヨ入道 季吟
かやうの類あげてかぞふべからず。姿の字の類、際限なき事也。」(俳諧秘)
「制の詞」は今で言えば著作権の問題になる。今日の著作権の考え方は完全な一致がどの程度の量で見られるかから判定される。だから、一字変えるとか、音楽で言えば一音変えるとかで逃れる場合もある。それでも似ていれば「パクリ」だと言われ、作者の評判を落とすことになる。
かつては法的な規定もなく、和歌では有名な和歌のフレーズなどが制の詞とされてきた。
「月やあらぬ」は、
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
在原業平(古今集)
で、これは有名。
「霞かねたる」は、
今日見れは雲も桜に埋づもれて
霞かねたるみ吉野の山
藤原家隆(新勅撰集)
で、今ではあまり顧みられない歌だ。「有が中にも家隆の歌おほし」とあるところを見ると、制の詞が定められる過程で、何らかの大人の事情があったのかもしれない。
「ほのぼのとあかし」は、
ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島がくれ行く舟をしぞ思ふ
この歌、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)
の歌で、かつては誰もが知るような歌だったが、今はそれほどでもない。
「久かたの月」「をしてるや難波」「足引の山鳥」に関しては、人麿の歌であっても、枕詞なので制の詞にはならない。
「久かたの月」は、
ひさかたの天行く月を網に刺し
我が大君は蓋にせり
柿本人麻呂(万葉集巻三、二四〇)
だろうか。
「をしてるや難波」は、
おしてるや難波の御津に焼く塩の
からくも我は老いにけるかな
よみ人しらず(古今集)
の歌がある。
「足引の山鳥」は言わずと知れた、
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
柿本人麻呂(拾遺集)
になる。
「霞を衣にたとへ、色葉をいろはにたとへ、霜を柱などの類」などは、和歌でも連歌でも俳諧でも繰り返し用いられてきた言葉で、こういう言葉も制の詞にはならない。ほんの少し変えるだけでも新しくなるからだという。
むしろ和歌は俳諧といった雅語に拘束される文芸では、限られた語彙の中でいかに新味を出すかが求められる。俳諧の場合は新しい俗語に置き換えることができるが、雅語の文芸はそうはいかない。
稀にあふ夜をばまん丸ねもせいで
玉子のおやかいそぐきぬぎぬ 貞徳
前句の「まん丸」を卵として、「音も急いで」から卵の親の音、つまり鶏の声とする。
ま虫のさたはおかしませとよ
見るににくへの字戴ヨ入道 季吟
「ヨ入道」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「夜入道」の解説」に、
「〘名〙 (「ヘマムショ入道」の「ヨ」を「夜」にいいかえて上略した語) 入道姿をした人。また、夜歩きをするあやしげな坊主。
※俳諧・天満千句(1676)二「かたかなつくる色々の草〈宗因〉 よ入道その味ひをかんがへて〈西鬼〉」
とある。「ヘマムショ入道」は同じく「精選版 日本国語大辞典「ヘマムショ入道」の解説」に、
「〘名〙 「ヘマムシ入道」の横顔に片仮名の「ヨ」を加えて耳を描いたもの。
※随筆・遠碧軒記(1675)下「青蓮院殿にヘマムショ入道」
とある。画像があるが、「へのへのもへじ」のような字で顔を書く遊びで、へが頭に、マが眉と目に、ムが鼻に、シが口と顎になり、「入」が首と襟と背中、「道」のしんにょうが袖になる。
前句の「まむし」に「へ」の字の頭を戴き、更に「ヨ入道」を書くことで、可笑しさが増す。
まあ、俳諧は新しい言葉を工夫することが大事で、古臭い制の詞をわざわざ用いることもない、ということだろう。
前に、
いにしへの奈良のみや此八重桜
の句が出てきたが、当時は文字の一致は盗用とはみなされなかった。
はぜ釣るや水村山郭酒旗の風 嵐雪
よにふるもさらに宗祇の宿りかな 芭蕉
のような句も特に問題はなかった。
ただ、言葉の続きが似ている句は『去来抄』で問題にされてたりする。
樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
桐の木の風にかまはぬ落葉かな 凡兆
くずの葉の面見せけり今朝の露 芭蕉
蕣の裏を見せけり秋の風 許六
ともに意味が大きく異なるもので、等類にはならない。
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