2022年1月30日日曜日

 この頃雲一つない冬空の日がなくて、晴れても雲が多くなった。今日は富士山が見えなかったし、これが春なのかな。
 そういえば今日は早咲きの紅梅だけでなく、白梅が咲いているのを見た。
 旧暦だと冬はあと二日残すのみ。
 蓬生巻の最後の所で、「今またもついであらむ折に、思ひ出でて聞こゆべきとぞ。」のところを「またいつかスピンオフの話でもあれば、その時に思い出して語っていきたいと思います。」と訳したのは、まあ冗談というか遊びが過ぎたかもしれないが、女房語りというのが近代文学のような孤独な自己表現ではなく、あくまで女房同士の会話の中で、こういう話が聞きたいな、みたいなところで生まれていたんじゃないかと思う。
 宇治十帖もそういう続編のリクエストに答えた後日談ではなかったか。

 それでは「俳諧秘」の続き。

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水

 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。

 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん

 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

 大廻しは第十二と三段切発句は第十と被っている。
 ここで大廻しとして例に挙げている発句、

 五月雨は峰の松風谷の水

は、第十の三段切発句、

 花はひも柳は髪をときつ風
 織女は何れの薄ぎり雲の帯    則常

と同じような分の続き方で、大廻しと三段切の区別は混乱していたか。
 前にも述べたが、梵灯『長短抄』では、

 「発句大廻ト云 在口伝、
   山ハ只岩木ノシヅク春ノ雨
   松風ハ常葉ノシグレ秋ノ雨
   五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷ノ水
  三体発句
   アナタウト春日ノミガク玉津嶋」

とあり、「五月雨は」の句はこれだと大廻しで合っていることになる。
 「十八てにをは」は「切れ字十八字」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切字十八字」の解説」に、

 「〘名〙 連歌、俳諧で秘伝とする一八語の切れ字。「かな・けり・もがな・らん・し・ぞ・か・よ・せ・や・れ・つ・ぬ・ず・に・じ・へ・け」の一八語をさす。このうち、「せ・れ・へ・け」は動詞の命令形語尾、「し」は形容詞の終止形語尾、「に」は副詞「いかに」であり、他は助動詞と終助詞である。室町中期に成立し、江戸時代まで秘伝とされた。十八の切れ字。〔白髪集(1563)〕」

とある。出典は紹巴編『白髪集』になっている。大廻し、三段切はこの十八と同様の格になる。
 梵灯『長短抄』では「かな、けり、か、し、や、ぬ、むハネ字、セイバイノ字、す、よ は、けれ」が「発句之切字」として挙げられている。

 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん

の二句については、「第十一 はね字とめ発句」と被っている。

  「発句のけり留之事

 神無月紅葉も春に成にけり
 あまた度来てねこそげに喰にけり

 右之格也。七文字にて、にとをさへ、下にてけりと留るなり。」(俳諧秘)

 けり留については土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とあり、あまり好まれなかったようだ。芭蕉の、

 道のべの木槿は馬にくはれけり  芭蕉

の名作はあるが、ここでも「にとをさへ」は守られている。

 ゑびす講酢売に袴着せにけり   芭蕉(続猿蓑)

も同様、「に」と押さえて「けり」で結んでいる。

  「第三 もなしの事

 木の葉ちる分入山の道もなし

 此格也。発句のもなしは、なき事を有様に云たて、第三のもなしは、有事を有様に云也。此替なり。

 朝雰に海辺とならぬ山もなし

 右に云、なき事を有様にいひなす格也。はなし留も同前。はも通韻なり。」(俳諧秘)

 朝雰は「あさぎり」。
 発句は、木葉が散って分け入る山に本当は道があるのだけれど、落葉に埋まって道がなくなっているという意味で、「道がない」ということは「ない」のだけど、「ある」と言い立てている。
 第三の方は山の上から見下ろす景色だろう。どの山の中腹までも雲海が広がり、雲海の海辺とならない山もない、となる。海辺はあくまで雲海の海辺で、本当に海辺に山があったわけではない。
 「応仁二年冬心敬等何人百韻」の発句、

 雪のをる萱が末葉は道もなし    心敬

の場合は、萱(かや)の葉の先は雪が乗っかって折れて倒れて、それが道を塞いでしまっているというもので、道がある者がなくなってしまったとなる。なき事を有様に言い為す格になる。
 あるものをあるというだけでは、一つの状態を提示しただけで、発句にふさわしい完結性がなく、ないものをあえてあるというところに、一つのはっきりした意思が働き「もなし」が単なる状態ではなく、強く言い切る形になる。
 「もなし」留は連歌発句ではわりと普通に見られる。ただ「はなし」留の句はかなり珍しいのではないかと思う。

  「祝言の事
 発句、脇、第三の仕様、梅、花、柳、椿、松、若葉の末をかかへたる事可然。
 祝言の時、松は千代と限を定事心得有べし。花をうへ、小松を植初る心持能なり。
 但、病人などの所望にて発句するには、椿、卯木をせぬ也。又、つづきのあしきを嫌。」(俳諧秘)

 これはマナーの問題になる。祝言ならお目出度いのを読むのが普通で、松と言えば千代の松の常緑で枯れることのないのをことほぎとする。花を植えるのも、小松を植えるのも、未来の繁栄を願うもので、祝言にふさわしい。
 病人がいる場合は、椿は首がぼとっと落ちて縁起悪い。卯の花も仏様の花というイメージがあったか。

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