沖縄のヤンキー三百人の警察署襲撃は日本版のジョージ・フロイド事件か。日本ではヤンキーが差別されていて、歩いているだけで職質され、犯罪者扱いされたりする。日本の黒人といっていいだろう。ヤンキー・ライブズ・マター。
北京オリンピックと東京オリンピックが違うのは、東京の時はデルタ株で、それ以前のものよりは感染力が高かったとはいえ、従来の感染防止体制で何とか凌ぐことができたが、オミ株の感染力は半端ではない。
選手が現地に行くことはできても、無事に競技に出場できるのかどうか。有力選手の続々欠場では見ても面白くない。
あと、こやん源氏の『蓬生』をアップしたのでよろしく。一夫多妻が女性の生活保護のシステムの側面を持っていたことがよくわかる。
さて、『俳諧秘』をもう少し読んでみようか。
まず、「或人之説 連俳十三ケ条」の「一 賦物の事」から。
「或人之説 連俳十三ケ条
一、賦物の事、六義の第一なり。則賦之字をクバルトヨム。百韻の全体此一字より起るなり。
此儀は神道より出たる也。しかるにより、むさと云べき事ならず。連は清浄なるゆへ、必賦物取也。俳は穢れたる事も云出すゆへ、とらざるなり。俳賦物取時は、一座清浄也。」(俳諧秘)
賦は詩の六義の一つで、詩の六義は『詩経』大序に「故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」とある。
このうち「風」「雅」「頌」は詩経の章のタイトルになっているように、風は諸国の民謡、雅は宮廷での儀式の歌、頌は祖霊に捧げる歌と、歌われる場面で分けられている。ここから「風雅」というのは民謡と宮廷の歌とを合わせていう言葉になる。「風流」はもっぱら庶民の芸能やその趣向やトレンドなどを表すことになる。俳諧も「風流」と呼ばれるのはこのためだ。
「賦」「比」「興」は詩の手法による分類で、「賦」は直接的に相手に語りかける体、「比」は風刺などでよく用いられる、そのものではなく別の物に喩えて語る体、「興」は他の物から言い興す体を言う。
「賦」は後に詩よりもやや散文的な文章として独立したジャンルになって行った。
西洋かぶれの文学者は賦=直叙、比=比喩、興=隠喩と西洋の概念に単純に当てはめてゆくことが多いが、興に関しては正確ではない。
一応『中国古典文学大系15 詩経・楚辞』(目加田誠訳、一九六四、平凡社)の解説を引用しておく。
「賦・比・興のうち、賦と比とはあまり問題はないけれども、この興というものは、『詩経』の詩の特色でもあり、非常に多くの問題をもっている。興という言葉はもともと起こすという意味の言葉で、詩の興は、はじめにあることを言って、それによって主題を引き起こす方法である。たとえば関々と連れ鳴く雌雄の鳥の睦まじさを始めに言って、すぐれた若い人と美しい乙女とが似合いの夫婦であることを言い起すようなものである。比喩ではなく、一つの発想法でもあり、この形が三百篇のおよそ半ばを占めている。」(中国古典文学大系15 詩経・楚辞)
「関々と連れ鳴く雌雄の鳥の」は『詩経』国風の冒頭の詩で、
關關雎鳩 在河之州
窈窕淑女 君子好逑
仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいる。
奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。
から始まる。
現代でもJ-popでもこうした手法は時折用いられる。THE BOOMの『島唄』(宮沢和史作詞作曲)では「でいごの花がさき/風を呼び嵐が来た」で始まり、花が咲いては嵐に散ってゆく悲しみを引き出し、そこに「ウージの森であなたと出会い/ウージの下で千代にさよなら」と展開させ、恋の情を引き出して行く。
これに倣って『古今和歌集』仮名序には「うたのさま、むつなり。」とあり、「そへうた、かぞへうた、なずらへうた、たとへうた、ただことうた、いはひうた、」の六つが列挙されている。
「そもそも、歌の様、六つなり。からの歌にも、かくぞあるべき。
そのむくさの一つには、そへ歌。おほさざきのみかどを、そへたてまつれる歌、
難波津にさくやこの花冬ごもり
今は春べとさくやこの花
と言へるなるべし。
二つには、かぞへ歌、
さく花に思ひつくみのあぢきなさ
身にいたつきのいるも知らずて
といへるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、物にたとへなどもせぬもの也、この歌いかに言へるにかあらむ、その心えがたし。五つにただこと歌といへるなむ、これにはかなふべき。]
三つには、なずらへう歌、
君に今朝あしたの霜のおきていなば
恋しきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。[これは、物にもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
四つには、たとへ歌、
わが恋はよむとも尽きじ荒磯海の
浜のまさごはよみつくすとも
といへるなるべし。[これは、よろづの草木、鳥けだものにつけて、心を見するなり。この歌は、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへ歌とおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。須磨のあまの塩やくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この歌などやかなふべからむ。]
五つには、ただこと歌、
いつはりのなき世なりせばいかばかり
人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。[これは、事のととのほり、正しきをいふ也。この歌の心、さらにかなはず、とめ歌とやいふべからむ。山桜あくまで色を見つる哉花ちるべくも風ふかぬ世に。]
六つには、いはひ歌、
この殿はむべも富みけりさき草の
みつ葉よつ葉にとのづくりせり
といへるなるべし。[これは、世をほめて神につぐる也。この歌、いはひ歌とは見えずなむある。春日野に若菜摘みつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ。これらや、すこしかなふべからむ。おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。] 」
とある。
そへうたが頌、かぞへうたが賦、なずらへうたが興、たとへうたが比、ただことうたが風、いはひうたが雅に相当する。
ただ、連歌の賦物をこの「賦」に擬えるのはやや強引な感じもする。単に賦が「捧げる」という意味を持つ所から、一巻を神仏への貢ぎ物に凝らすためのものと考えた方が良いように思える。
連歌会は神社仏閣などで興行されることが多かった。「花の下連歌」というのも、公園などのなかった時代には寺社が花見の場であり、花の下で連歌興行を行うというのは、そのまま寺社での興行であり、連歌は神仏を楽しませるための貢ぎ物だった。
「此儀は神道より出たる也」とあるように、神仏は本地垂迹の関係にあり、神仏に捧げると言っても、直接的には垂迹である神の方に捧げるもので、連歌会は神事の形式を取ることで、神聖なものとして公界でそれを興行する特権を得ていたのではないかと思う。
たとえば「賦山何連歌」と言った場合は「やまびと」「やまどり」「やまかぜ」「やまほととぎす」「やまみち」などの雅語を捧げるわけだが、これも神の言葉を用いるという意味があっただろう。
「しかるにより、むさと云べき事ならず」の「むさ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「むさくるしい。不潔である。心ぎたない。卑しい。
出典西鶴織留 浮世・西鶴
「塩籠(しほかご)にむさき事どもして」
[訳] (油虫どもが)塩籠に不潔なことごとをして。」
とある。
その派生語か、「むさと」もweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
①むやみに。やたらに。
②うっかりと。
出典国性爺合戦 浄瑠・近松
「むさと鉄砲はなすな」
[訳] うっかりと鉄砲をはなすな。
③取るに足らない。
とある。いずれも用例が江戸時代のものだ。季吟や芭蕉の時代の俗語であろう。「無作」が語源か。
ただ、この場合の「むさ」という言い方は、どこか現代の「うざっ」つまり「面倒だ、わずらわしい」の用法に似ている。あるいは、「うざい」は「むざい」で「むさし」から来たのかもしれない。「うめ」「むめ」、「うま」「むま」の交替と同じ。
「連は清浄なるゆへ、必賦物取也。俳は穢れたる事も云出すゆへ、とらざるなり」というのは、興行の会場からして俳諧は私邸で行われることが多く、必ずしも神域ではなかったからではないか。
いずれにせよ、俳諧は神仏に捧げるという意味が薄れてしまったが故に、賦物を取らなくてもいい、というふうになったのだろう。
「依其、長頭丸風に、発句花なれば華の俳諧、月なれば月の俳諧、と端書する也。
是は、一字露顕の格也。」(俳諧秘)
長頭丸は貞徳のこと。「一字露顕」は「二字反音」「三字中略」「四字上下略」と並ぶ賦物で「山何」などと同様に扱われる。発句の中の一文字を捧げるという意味になる。
「一、発句は陽也。天地開初一陽起る也。然るにより、如何にも長高く云上也。
脇は又、陰也。陰は不断陽に籠りて有り故、陰字をする也。陰は陽にしたがふ物なれば、発句により、取寄、天地和合すべし。
第三は、天地極て人の道始也。然るにより、発句、脇に目をかけず、又、発句する心地にすべし。天地人の三才也。元朝の三ツ物と申も、天地人の三才也。
四句目、八句め、かろがろとする也。面八句は八卦にかたどる。八ツは数の字たる始也。裏面有事は陰陽なり。四折は四季をかたどる。百韻も、上五十韻は陽、下五十韻は陰なり。」(俳諧秘)
これは後付けの理由というか、方便と見た方が良いのではないかと思う。合掌をするのは、お手々の皺と皺と合わせて幸せになれるからだ、という類のものに近い。両の拳を胸の前で合わせると、指の節と節が合わさるから不幸せになるという。(これはフィスト・バンプのことではなく、喧嘩をするときの威嚇の仕草をいう。)
面八句の進め方をわかりやすくする効果はある。
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