トンガにニュージーランドの救援機が降りたって、多くの人や犬の映った画像が公開され、大変なことにはなっているけど、壊滅のような最悪な事態ではなかったので、少し安心した。
夜中にあんなにエリアメールが鳴らなかったら、ひょっとしたら無関心だったかもしれないと思うと、あのエリアメールも役に立ったのではないか。
昨日でオミ株の新規感染者数が四万人を越えた。まだ医療の方は余裕がある。感染拡大が急だったために、重症患者の増加とのタイムラグが大きくなっているのだろう。あと一週間すると切迫するかもしれない。
「全国で一日四万人に達する前にピークアウトできれば、一応の勝利と言えよう。」なんて言ったのは一月四日で、まだあの一日1.5倍ペースでの拡大が始まる前で、オミ株の感染力を甘く見ていた。今までの日本の自粛体勢では、もはやほとんど感染拡大を抑止する効果がないと見るべきだろう。感染拡大の抑止を無視してでも、重症化防止にシフトすべき時だ。
マスク、消毒、密の回避、などは、感染は防げないにしても、一度に吸い込むウィルス量を減らすことで、重症化を防ぐ効果がある。これは続けるべきだ。
ワクチンも感染は防げないが、重症化を抑止できる。三回目接種を速やかに行わなくてはならない。
その一方で、二週間の隔離措置は速やかに廃止した方が良い。経済活動が止まる恐れがあるし、エッセンシャルワーカーの感染により医療がストップする危険の方が大きい。
五類引き下げだと、さすがにワクチンや治療薬が有料になってしまうので、そこまではすべきではない。隔離措置に関してだけは非常事態ということで、たとえ超法規的にでも柔軟に対応すべきだ。
あと、既に新規感染者が一日四万人に達し、これからすぐに十万人に達するようであれば、欧米の感染状況との差がほとんどなくなるので、渡航制限もすみやかに解除した方が良い。在日米軍の外出制限についても同じ。
そういうわけで、状況は変わった。「感染を広める」といった批判はもう無視していい。感染は止められない。重症化を食い止めろ。城壁で防げない時は、城内招き入れて搦め捕れ。
それでは「俳諧秘」の続き。
「第八 発句切字なくてかなはぬ事也。
猶予細有哉。
所願(モガナ)、をの字、切字心持有也。
しの字、むかふしの字はきれ字。過去のし、切字にならず。ぬの字、おはんぬのぬはきれ字。ふのぬはきれず。上に下知して、下に哉ととめ、上にこそといふて、下に哉ととむる事、宗匠はざなり。仕立やう有。」(俳諧秘)
「猶予細有哉」は古来切れ字は多くの連歌書や俳書に書かれてきて、重複を避けるというのと、あとは口伝があるという意味だろう。門人向けにはここを多少補ってこの本を渡したのかもしれない。
心持はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心持」の解説」とあり、
「① 心の持ち方。心がけや気立て。
※静嘉堂文庫本無名抄(1211頃)「身のふるまひもてなし、心もちなど、赤染には及び難かりけるにや」
※随筆・戴恩記(1644頃)上「其物語いまおもへば、みな人の心持になる殊勝の事どもなり」
② 実際はそうでないのに、そうであるかのような気持。また、何かしようとする気持。つもり。
※浮世草子・好色万金丹(1694)一「あふたびごとに壱歩壱つ宛銭箱に入て、是を揚銭の心もちとのけてをき」
③ 何かをしたり、されたりした時に、受ける感じ。
※滑稽本・古朽木(1780)二「宜敷気もち心持、嚊(かか)もやき餠打忘れ」
④ 生理的な心のぐあい。気分。「急に心持が悪くなった」
※人情本・清談峯初花(1819‐21)後「あつさつよきゆへにや、おりしこころもちあしくなりければ、やまのちゃやにやすむところへ」
⑤ 能楽などで、演じている外見の様子から察せられる、場面ごとの心のありよう。
※童舞抄(1596)源氏供養「正面へおもてをなをし、物を案ずるやうに心持をすべし」
[2] 〘副〙 わずかにそれと感じられるだけ。ほんの少し。やや。
※狂言記・棒縛(1730)「小舞をまへ。いや此のなりではまわれぬ。どうなりと心持斗まへ」
※虞美人草(1907)〈夏目漱石〉一一「首を心持(ココロモチ)藤尾の方へ向け直した」
[語誌]→「きもち(気持)」の語誌
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について」
とある。⑤の用法に近いもので、「もがな」「を」の字はかなり文脈に左右され、切字になったりならなかったりするという意味だろう。
「もがな」は宗因の『俳諧無言抄』には、「ねかひかなは花も哉、月もかな也」とあり、「願ひ哉」とも呼ばれていたようだ。
盛なる梅にす手引風も哉 宗房
春風にふき出し笑ふ花も哉 同
など、古風な感じがする。
「し」の字の「むかふしの字はきれ字」というのは形容詞の終止形語尾のことだと思われる。「過去のし、切字にならず」というのは、過去や完了を表す「き」という助動詞の連体形で、終止形ではないからだ。
『野ざらし紀行』の三井秋風亭での句、
梅白し昨日や鶴を盗まれし 芭蕉
の場合も、「白し」の方が切れ字で、「盗まれし」は切れ字ではない。「昨日は鶴をぬすまれしや」の倒置になる。
紹巴の『至寶抄』は形容詞の「し」を「現在のし」と呼んでいる。
「ぬの字、おはんぬのぬはきれ字。ふのぬはきれず。」は「終わんぬのぬ」「不のぬ」のこと。完了の「ぬ」は終止形で切れ字になるが、否定の「ぬ」は「ず」の連体形なので切れ字にはならない。
「上に下知して、下に哉ととめ」の下知は命令のこと。命令形語尾や命令を表す助詞も切字になるので、それに哉を加えると切れ字が二重になる。『新撰菟玖波集』に、
髪こほれまゆうちけぶるやな木哉 後成恩寺入道前関白太政大臣
の句がある。
「上にこそといふて、下に哉ととむる」は「こそ」という係助詞を已然形ではなく「哉」で受けるということか。『新撰菟玖波集』に、
名こそ萩ひかりは冬の月よかな 法橋兼載
の例がある。
いずれにせよ変則的な切れ字の使い方で、宗匠格以外はやらない方が良いということのようだ。
ついでだが、上に「や」と言って「哉」で結ぶ例も、『新撰菟玖波集』の連歌発句に見られる。
春や風ふけば色そふ柳哉 宗長法師
山や雨花にやどかす霞哉 藤原房定朝臣
「第九 をまはしの発句
花さかぬ草木もあるを石の竹
どんぐりの木さえもあるを利根草
此仕立やうは、上にさへと云て、下にをと押へ侍る也。
句のこころは花さかぬ草木さへあるを、此石の竹の花咲は奇妙也。石や竹にも花さかぬ物なるを、くらべいへる心、自然に切る也。
をの字、切字の所に出し侍れば、常のてにはをはのをの字、切字に成と思ひあやまり、又、古人のこの句のとまりに、をの字をすへたるを見て、切字かと思ふ人有故、是一ッの口伝。」(俳諧秘)
「を」を用いた句というと、芭蕉にも、
青くてもあるべきものを唐辛子 芭蕉
の句がある。逆説の仮定条件を表す接続助詞の「を」に限り、切字に用いられる。
「第九ノ余リ爰ニ記ス
白雲と花咲く木々をみねの雪
かやうなるは切字にてなく侍る。
又、物二つくらべずして切る有。ここに一両句あげ侍る。其格は口伝に残ス。
霜にたへしみさほも有を雪の雲
をしかりし春さへあるを年の暮 愚句
祖白の句
暁がた雨はれたる元日
来る春はさはらぬものを夜の雨
此句は、来る春は八重むぐらにもさはらざりける、と云めづらしく侍るにや。其隠者の身の程を思へば、一入珍重成るにや。これら、をまはしの句の手本なるべし。」(俳諧秘)
「白雲」の句は「木々や」とすべきところだろう。白雲と見まごうばかりに花さく木々や峯の雪なるらん、という意味で、「を」だと、白雲と見まごうばかりに花さく木々を峰の雪と見て、という付け句の体になってしまう。
「物二つくらべずして切る有」は先の芭蕉の「青くても」の句も同じ。逆説の仮定条件として他の者を出すか出さないかの違い。
祖白の句は、
とふ人もなき宿なれど来る春は
八重葎にもさはらざりけり
紀貫之(新勅撰集)
によるもので、「さわらざりけり」は「障らざりけり」で、障害にはならない、という意味になる。八重葎の茂る宿にも春は気にせずに来てくれる。
これに対し祖白の発句は、来る春は夜の雨でも気にせずに来てくれるものをという逆説の仮定を示すことで、句自体には現れない前書きの「暁がた雨はれたる」に応じている。
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