一月の初め、最初に感染が急拡大した沖縄がピークアウトしたか。実効再生産数が1を切っている。これは希望だ。
そういえば、北京オリンピックは今のところ盛り上がってないね。まあ、東京のオリパラに反対した人たちは、今更北京は賛成なんて言える雰囲気ではないし、右側の人はもとより中国に協力したくないしで、興味を持っているのはコアなスポーツファンだけじゃないかな。
まあ、開会式はどうせ漢民族独裁国家の国威発揚イベントだからどうでもいいけど、ネットで配信してくれるなら競技くらいは見ても良いかな。正常に運営されればの話だけど。
今どき中国に固執するのは、財界の保守層くらいだろう。かつて天安門事件の時に中国を許したことが、その後の開放政策で大儲けに繋がった、その過去の成功体験から抜け出せない人たちだ。
たとえウイグルや香港を許しても、開放政策を終わらせたシーがのさばる限り、中国がふたたび急成長することはないと思うが。
『曽我物語』の方は、佐殿が挙兵した後はあっという間に平家は滅亡していて、幕府を開く頃の場面になる。まるで三谷脚本だ。
兄は家督を継げたが、弟は出家とこれも当時では当たり前のパターンなんだろう。
「争ったりせずに、みんな仲良く分け合えばいいじゃないか」というのは生産性の高い近代人の発想だ。一人生きて行くのがやっとの食料で、みんな仲良く分け合ったらみんな餓死する、というのが前近代。
人権思想は理想としては素晴らしいが、その前提条件がついつい見落とされがちだ。経済あっての平等ということを忘れてはいけない。平等のために経済を犠牲にしたら大勢の餓死者を出す。二十世紀社会主義の教訓。
それでは「俳諧秘」の続き。
「紹巴法橋より玄仍へ遣され候書、脇に五法あり。
一相対 二打添 三 違付 四 心付 五 比留り」(俳諧秘)
これは紹巴の『連歌教訓』のことであろう。
「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.203)
とある。
相対付は対句を作るような付け方で、『春の日』の、
炭売のをのがつまこそ黒からめ
ひとの粧ひを鏡磨寒 荷兮
炭売に鏡磨と相対して付け、炭売の妻は黒く、鏡磨はその装いを助ける、と付く。
打添は『連歌教訓』に手本として、
年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
雪こそ花とかすむはるの日
梅の薗に草木をなせる匂ひかな
庭白妙のゆきのはる風
ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
木の下草のはなをまつころ
が挙げられている。
四に心付けがあるところから、これは物付けで受けることをいうと思われる。
「年ひらけ」の句は新春の句で、梅に雪を添える。花は咲いてないが、梅に添う雪が花となる。
「梅の薗」もまた「梅」に「ゆき」、「薗」に「庭」と四手に受ける。
「ちらじ夢」の句は「柳」に「木」、「秋のかぜ」に「はなをまつ」と受ける。
違付は相対付けに似ているが、相対する言葉を対句的に用いるのではなく、意味の上で反対のものに持っていく付け方で、『去来抄』にある芭蕉の、
ぽんとぬけたる池の蓮の実
咲花にかき出す橡のかたぶきて 芭蕉
くろみて高き樫木の森
咲花に小き門を出つ入つ 芭蕉
はいずれも違え付けになる。強引に花の定座に持っていきたい時などに、時間の経過や芭蕉の転換などで、辻褄を合わせるような付け方だ。
脇だと『文安月千句』(『千句連歌集 二』古典文庫 405)の、第七百韻、
光をも天に満たる月夜哉
初夕霜に野分たつ頃 良珍
は天に満ちる月夜に野分と違えて付けている。
心付は意味で付けることで、
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
のように、鳶が羽を掻い繕うのを風が静まったからだと、意味的につながっている。
比留りは「第十三 脇句之事」で述べた。
脇の五法は土芳『三冊子』「しろさうし」にも、
「對付、違付、うち添、比留の類、むかしより云置所也。師云、第一ほ句をうけてつりあひ専に、うち添て付るよし。句中に作を好む事あるべし。留りは文字すはり宜すべし。かな留メ自然にある。心得口決あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.95~96)
とある。
また、宗因の『俳諧無言抄』にも、
「又発句によりて相対(アンタイ)して付る有。打そへて付る有。ちかひ付、心付、比とまりなどの格はつねのならひ也。」
とあり、五法は宗匠のみの知る特別なものではなく、誰もが知る基本だったようだ。
相対は「あんたい」と読むこともあったようだ、「違付」も「たがひ」と読むことが多いが、「ちがひ」と読むこともあったようだ。
今みたいな文部省が国語を管理していた時代ではなかったから、概ね昔の言語に関しては「たった一つの真理」なんてものはないと言っていい。
名前の漢字も音があっていれば違う字を書いても問題はなかったし、同じ漢字でも漢音・呉音・訓読みとで使い分けることもあった。惟然も僧名は「いねん」で俳号は「いぜん」と使い分けていたらしい。宗房は名乗りとしては「むねふさ」だと思うが、俳号としてはあるいは「そうぼう」という読みもあったのかもしれない。
中世の連歌師の救済も「きゅうさい」「くぜい」「ぐさい」などの読みか方あるが、これも使い分けていた可能性がある。吉川惟足の「よしかわこれたり」と「きっかわこれたる」にしてもそうだ。いずれも本名の概念のない時代のことだ。
「本歌、本語、世話など、大方発句に云残したる詞を取也。発句よりその云残さぬ詞をとらぬ有。いささか習ひ有。大小の脇などいへる事あり。先師貞徳老よりの口伝。」(俳諧秘)
脇を本歌は古歌で付けることで、本語は本説と同じで古事・物語などで付けることをいう。「世話」は古典ではないが世間によく知られた小唄や諺などで付けることか。
ゆづり葉や口に含みて筆始 其角
の句は芭蕉書簡に「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」とあり、千秋万歳(せんずまんざい)の口上だったか。こういうのもおそらく世話に入るのだろう。
出典のある発句の場合、脇はその出典にある言葉を用いないということか。
『野ざらし紀行』の旅で、貞享元年の冬、熱田での、
檜笠雪をいのちの舎リ哉
稿一つかね足つつみ行 芭蕉
の脇は玉屑の「閩僧可士送僧詩」の「笠重呉天雪 鞋香楚地花」を踏まえて、檜笠の雪に「鞋」の文字を用いずに藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きます、としている。
貞享三年秋の、
夕照
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
の発句は、
真萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞかべに消え行く
永福門院(風雅集)
を本歌にしたものと思われるが、「萩」「庭」「秋風」などの詞を外さなくてはならないという制約があったのかもしれない。ここでは蜻蛉(とんぼう)から蜻蛉嶋(あきつしま)=豊葦原瑞穂国の連想で付けている。
ただ、本歌・本説は付け合いとして定着しているものも多い。延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
という脇があるが、「花に鳴く鶯、水に住む蛙」という古今集仮名序の詞にまで厳密に適用されることはなかったのだろう。「いささか習ひ有」というのは、そういうことか。
「大小の脇」というのは、発句を大刀、脇を脇差に喩えるということか。
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