図書館で『曽我物語』を借りてきた。何だか大河に出てきたような人たちが出て来ると思ったら、『曽我物語』が出典だったようだ。あの爺さんの孫が五郎十郎なのか。頼朝はやっぱ佐殿(すけどの)なんだ。
子供は簡単に殺すし、夫に死なれたら自害か出家、なんて今では考えられないけど、都市が未発達な時代は、男は家督を継げなければ生きる道がないし、女も家督を継ぐ者の妻になれなければ生きる道がない。ただでさえそれは狭き門だから、失ったらもう次はないという時代だったのだろう。
一人の親の家督を継ぐのが基本的に一人だと、それを脅かすものは容赦なく殺す。兄弟でも子供でも。そうしないと自分が殺される。そういう時代だ。
それを考えれば、江戸時代に大都市が形成されたというのがどんなに凄いことだったのか。
現代社会のイージーモードに慣れていると、古代中世のハードモードはなかなか想像もつかない。それを少しでも想像させてくれるのが物語の役割なんだろう。
それでは「俳諧秘」の続き。
「第十三 脇句之事
まづ脇は発句にしたがひて、時節たがひなきやうに打添付たるよし。
其上、月、雪、宿、或、草木、鳥獣の名、比留り、又、涼しさ、長閑さと留るも自然ニあり。
発句は客、脇は亭主、第三は相伴人。
まづ亭主脇は、客人発句の御意ニそむかぬやうにと心持よき也。」(俳諧秘)
これは連歌の時代から変わらない基本で、紹巴の『至寶抄』にも、
「脇句の事、よく発句の心うけて、其時節背きなき様に一かどさはやかに(可被遊候)」
とある。
発句を客が詠み、脇を亭主が付けるというのは慣習的なもので、必ずしもこの通りでない場合も多い。貞享二年の夏に出羽の清風が江戸にやって来た時の興行は、
涼しさの凝くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
松風のはかた箱崎露けくて 嵐雪
と、客人の清風が発句を詠み、江戸の芭蕉が脇を付けているが、会場は清風の江戸屋敷だった。清風は出羽から来たという意味では客だが、会場は清風のもので、その意味では芭蕉の方が招かれた客だったとも言える。こういう複雑な状況もあるので、臨機応変に運用する必要がある。
翌年の春にふたたび清風の江戸屋敷に招かれた時には、
花咲て七日鶴見る麓哉 芭蕉
懼て蛙のわたる細橋 清風
足踏木を春まだ氷る筏して 挙白
と芭蕉が客人になっている。
貞享四年の冬、芭蕉が『笈の小文』の旅で名古屋の荷兮亭に招かれた時には、そこに岐阜の落梧も招かれていた。この時は、
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
よき家続く雪の見どころ 芭蕉
鵙の居る里の垣根に餌をさして 荷兮
と、芭蕉が落梧に発句を譲り、亭主が第三を付けるという変則的な形になっている。
「比留り」というのは発句に対して、「何々の頃」とその時候を添える付け方で、特に思いつくことのない時は無難な付け方になる。
宗砌の時代の『千句連歌集 二』(古典文庫 405、一九八〇)の三千句を見ると、「文安月千句」の第七百韻に、
光をも天に満たる月夜哉
初夕霜に野分たつ頃 良珍
「文安雪千句」の第一百韻に、
なをつれも弥とよとしの初深雪
玉松かえとあられふるころ 日晟
第三百韻、
里わかぬ花の本かな木々の雪
梅冬ごもり月にほふころ 智薀
「顕証院会千句」の第六百韻に、
秋草は露をつつまぬ袂かな
すすきおしなみほに出るころ 貞運
のように、十巻に一回は用いられるくらいの頻度があった。
ただ、判で押したような印象を与えるので、芭蕉の時代にはあまり用いられていない。
『阿羅野』の、
雁がねも静にきけばからびずや
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
は微妙にその単調さを回避している。
また、「ころ」という字は用いなくても、その場の季節時間などを添えるのは『ひさご』の、
木のもとに汁も膾も桜かな
西日のどかによき天気なり 珍碩
のように、良い付け方とされていた。
「客人発句の御意ニそむかぬ」というのは、まあ挨拶の基本だが、おざなりの季候の挨拶でスルーするというのは一つのテクニックでもある。
雪のをる萱が末葉は道もなし 心敬
のような会の目出度さもなく、どこか応仁の乱後の国の行く末を憂いているかのような発句に、宗祇は、
雪のをる萱が末葉は道もなし
ゆふ暮さむみ行く袖もみず 宗祇
と、簡単に旅の風景を添えて流している。
有名な『天正十年愛宕百韻』の、
ときは今天が下しる五月哉 光秀
の句にも、愛宕西之坊の住職の脇は、
ときは今天が下しる五月哉
水上まさる庭の夏山 行祐
と、そっけないものだった。
江戸後期の竹内玄玄一の『俳家奇人談』の山崎宗鑑の所にあるエピソードだが、宗鑑と宗長が三条西実隆のところを尋ねて杜若を献じた時、お貴族様の実隆は旅の連歌師を蔑んで、
手に持てる姿を見れば餓鬼つばた
と発句したのに対して、
手に持てる姿を見れば餓鬼つばた
のまんとすれば夏の沢水 宗長
と、ちょっと水を飲みに来た、と無難に返している。
ただ、それを見かねたか、宗鑑が第三で、
のまんとすれば夏の沢水
蛇(くちなは)に追はれて何地かへるらん 宗鑑
と実隆を蛇呼ばわりして反撃している。
まあ、礼儀も大事だが、それ以前に人間だということも忘れないことだ。
「時節たがはぬ一の法也。同じ春にても三月にわかち、一か月の中にても、上旬、中旬、下旬と分侍る。
同じ時節といひながら、霞などのやうに春三月ニわたる物あり。されど、霞にもうすきこきの時節、景気あり。
忠峯のいふばかりにや。みよし野の山も霞て、と読れしは元日のかすみなり。此いふばかりにやといへるに、深キ心ある事也。
同じ上旬にても元日の句に白馬節会、時節違なり。立秋の句に七夕の道具付たるも其心也。此心持肝要也。」(俳諧秘)
季節の一致に関しては、かなり細かいことを言っている。まあ、面倒な時は「春」だとか「秋」だとか三か月使える言葉を用いればいいのだが。
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
のような例もある。
「白馬節会(あおうまのせちえ)」はコトバンクの「百科事典マイペディア「白馬節会」の解説」に、
「朝廷の年中行事の一つ。正月7日に白馬を紫宸殿の前庭にひき出し,天覧のあと,宴を開く儀式。邪気を払う効があるという中国の故事による。初め〈鴨の羽の色〉(大伴家持)つまり青色の馬であったが,のち白色が重んぜられ,白馬となったという。」
とある。
まあ、元旦の朝にいきなり七草粥がないのと同様、元旦の句に白馬節会もふさわしくない。「立秋」「七夕」もそうだが、一日限定のピンポイントな季語は使いにくいので、脇ではあまり用いられることはない。
「取なりかつてせぬ事なり。詩の法に起承転之心能す。
第三相伴人なれば、かけはなれ取なしも仕候。」(俳諧秘)
脇は発句の意図を汲み取ってそれに逆らわず付けるのだから、前句を別の意味にとる為すことはあまりやらない。
ただ、「かつて」とあるように、俳諧では特にやっていけないということはない。
宗因の「俳諧無言抄」にも、
「取なして付る事、古来きらふといへども発句によりてかならず取なして付る有。」
とある。発句によっては取り成した方が良いものもあるということだ。
芭蕉の貞享四年の、
久かたやこなれこなれと初雲雀
旅なる友をさそひ越す春 芭蕉
の句は去来の、芭蕉さんを雲雀に喩え、「遥かなる高みからここまで来てみろと言われているような気持ちです」という寓意には答えずに、「去来さんの方が私を旅に誘って春を越しているのではありませんか」と別の寓意に取り成している。
「こなれこなれ」と言っているのはあなたの方ではありませんか、と相手の詞を切り返しているわけだから、挨拶として不自然なものはない。
「詩の法に起承転」とあるのは、漢詩の起承転結に喩えて、発句=起、脇=承、第三以下=転、とするもので、挙句が結になる。
第三は句を大きく展開させた方が良いので、大きな取り成しで発句とかけ離れたものにすることもある。
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