医療従事者の隔離期間を二週間から一週間に縮めるなんて言ってたと思ったら、十日に修正で早くも腰砕け。
 感染拡大が抑えきれない中で、重症化防止の治療体制を優先しなくてはならない時に、医療従事者の二週間のブランクは大きい。
 しかもその数は今後増え続け、多くの病院で誰もいない状態が生まれる恐れがある。
 ワクチンやマスクは重症化抑制にはなっても、感染防止の効果は薄い。ECMOや人工呼吸器の数少ない技術者にも感染が広まるのは避けられない。それが十日も休んでしまったら、多くの死者を出すことになる。
 今から二週間前を思い出してみればいい。ちょうど正月だ。新規感染者の数もまだ457人(東京は79人)。十日前でも一月五日の新規感染者の数もまだ2491人(東京は390人)。十日間のブランクは致命的で、浦島太郎のようなものだ。出てきたら状況が全く違っている。
 では「俳諧秘」の続き。
  「第二 発句之事本歌本語取用様
 発句仕立やう、様々の師伝、品々の工夫もある事、何れをさして、是ぞと云出んも風をつなぐ類なるべけれ共、本歌を取事、和歌連歌よりも有法なれば、いささか記し侍る。
 恋雑の歌をとりては四季の歌を読、四季の歌を取ては恋雑の歌を読、常の習ひ也。月の歌を取て、月の歌をよみ、花の歌を取て、花の歌を読む。狼藉の至とぞ、古人掟也。俳諧にも此心なり。假令、
 契けんこころぞつらき七夕の
     年に一たびあふはあふかは
と有歌をとりて、
 契けん心ぞつらき餅つつじ    則常
 おもへども人めつつみの高ければ
     川と見つつもえこそわたらね
と云を取て、近代の歌に、
 五月雨にふるの中道しるぬれば
     川と見つつも猶渡りけり
是は、恋の歌をとりて、季の歌に読なし、其心も新し。」(俳諧秘)
 恋の歌を本歌にとって四季の歌に作り替えるというのは、中世の和歌では頻繁に行われていたのだろう。恋の心を俤にして季節に情を添えるというメリットがある。
 思ひいづるときはの山の岩躑躅
     いはねばこそあれ戀しきものを
              よみ人しらず(古今集)
から、
 ときは山秋はみざりしくれなゐの
     色に出でぬる岩躑躅かな
              頓阿法師(続草庵集)
 あるいは、
 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
     乱れむと思ふ我ならなくに
              源融(古今集)
から、
 遠かたの梢の風やさわくらむ
     かすみの衣しのふもちすり
              正徹(草根集)
など、岩躑躅の花や霞に女の俤を添えている。
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
     ながながし夜をひとりかも寝む
              柿本人麻呂(拾遺集)
 ひとり寢る山鳥の尾のしだり尾に
     霜置きまよふ床の月影
              藤原定家(新古今集)
もその例といえよう。
 逆のパターンは何々に寄す恋、という形でいくらでもありそうだ。
 月や花の歌はもとから数が多いため、それを本歌取りしても大体似たり寄ったりの歌になってしまうというのもあるのだろう。珍しい趣向の方が、本歌取りに向いているのかもしれない。
 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
 これはこれはとばかり散るも桜哉 其角
の例は其角の句合集『句兄弟』にあるが。
 契けん心ぞつらき餅つつじ    則常
の「餅つつじ」はウィキペディアに、
 「ツツジ科ツツジ属に属する植物。落葉(半落葉)低木。本州(静岡県・山梨県~岡山県)と四国に分布。」
とあり、粘毛をもつことで、
 「花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある。
 ‥‥略‥‥
 そのほか、野外では花を折り取って、衣服や帽子にくっつける、という楽しみもある。」
とある。つまり「契る」と「千切る」を掛けている。ただ、千切る楽しさでパロディーにするのではなく、恋の本意を残しているというところが季吟門の風なのであろう。
 「又、上の句に読たる詞を腰へやり、下の句になし、又、下の句に有を上句に成てよむも不苦。
 又、其歌をあらはして取も一の法なり。
 其歌を取としらずして取を、絹を盗て染て着たる心と、先達ふかくにくみ侍し。」(俳諧秘)
 受験なんかで覚えさせられるような、本歌取りとして有名な和歌の例は、たいてい元歌の流れに沿ったものが多くてわかりやすいものが多い。
 苦しくも降り来る雨か三輪の崎
     佐野の渡りに家もあらなくに
              長忌寸奥麿(万葉集)
 駒とめて袖打ち払ふかけもなし
     佐野の渡の雪の夕暮
              藤原定家(新古今集)
の場合も「佐野の渡」の位置は一致している。これが、
 家なしときくぞあやしきかくばかり
     月はすみける佐野の渡りを
              宗良親王(宗良親王千首)
になると、下句の「家」が上句に来ていて、佐野の渡りが末尾に来る。これがさらに、
 日暮だに宿なき佐野の渡くる
     雁がねさむし秋の村雨
              正徹(草根集)
になると、「佐野の渡」が上句に着て、「雨」が下句に来る。
 俳諧で本歌を取る時も同様、下句の言葉が上句に来ても、上句の言葉が下句に来ても問題はない。
 「其歌をあらはして取」はよくわからないが、歌の一部を長く引用して用いるような取り方のことか。貞徳の「哥いづれ」の巻第三の、
   どこの盆にかをりやるつらゆき
 空にしられぬ雪ふるは月夜にて  貞徳
の句の本歌は、
 さくら散る木の下風は寒からで
     空にしられぬ雪ぞふりける
              紀貫之(拾遺集)
になるが、「空にしられぬ雪」から「ふる」「ふりける」と、ほぼそのまま取っている。
 これに対して蕉門の「あれあれて」の巻三十三句目、
   加太へはいる関のわかれど
 耳すねをそがるる様に横しぶき  猿雖
の句は、
 苦しくも降り来る雨か三輪の崎
     佐野の渡りに家もあらなくに
              長忌寸奥麿(万葉集)
の歌が元になっているが、「苦しくも降り来る雨」を「耳すねをそがるる様に横しぶき」と完全に俗語で言い換えている。
 「其歌を取としらずして取」というのは、本歌を取っているのに本歌がないかのようにふるまう、ということだろう。偶然の一致ということではあるまい。これはまあ、盗用ということになる。
 本歌に対する考え方は季吟門と談林では異なっていたのか、宗因の『俳諧無言抄』には、
 「三句めの事、たとへば朝霧と云句に、人丸の歌にて明石と付、その次の句に舟を付るは、逃歌有故成。是は三句にわたらざる也。他准之。
 蜑小舟苫吹かへす秋風に独明石の月を見かな」
とある。
 これは物付けの発想で、歌の内容だとか情だとかに関係なく、同じ歌に出て来る単語と単語で付けることを本歌と呼んでいる。
 たとえば、延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻五十一句目に、
   ふられて今朝はあたら山吹
 ひよんな恋笑止がりてや啼蛙   桃青
の句があるが、この山吹と蛙の付け合いは、
 かはづ鳴く井出の山吹散りにけり
     花のさかりにあはましものを
              よみ人しらず(古今集)
に由来する。談林ではこうした物付けの句も「本歌」と呼んでいたのだろう。
 蕉風確立期の『春の日』「なら坂や」の巻三十句目の、
   陽炎のもえのこりたる夫婦にて
 春雨袖に御哥いただく      荷兮
の場合の「陽炎」に「春雨」の展開は、
 かげろふのそれかあらぬか春雨の
     ふるひとなれば袖ぞ濡れぬる
             よみ人しらず(古今集)
の歌が本歌になるが、「もえのこりたる」に「それかあらぬか」が意味的に近いのと、「春雨袖」が涙に袖の濡れるの意味なので、言葉だけでなく文脈的にも本歌を取っていて、この方が季吟流に近いのであろう。
 「朝霧と云句に、人丸の歌にて明石と付」というのは、
 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
     島がくれ行く舟をしぞ思ふ
  この歌、ある人のいはく、柿本人麿が歌なり(古今集)
の歌に、「朝霧」と「明石」の文字があるからで、「その次の句に舟を付るは、逃歌有故成」とあるのは、人麿(人丸)の歌にも「舟」があるから人麿の歌を本歌にした句が三句に渡って続いて輪廻ではないか、という疑問に答えたもので、
 あま小舟苫吹かへす浦風に
     ひとりあかしの月をこそ見れ
              源俊頼(新古今集)
の歌を本歌にしたと言えば逃れられる。
 本歌の意味や文脈に関係なく単語と単語だけの物付けとしての本歌だから、一つの和歌の単語の三つめが出たからと言って、必ずしも一つの歌が三句に跨るわけではない、という判断になる。
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