バッハ会長があまりにも東京オリンピックの開催に前のめりになっていることで、東京の半年後に冬季オリンピックをやるあの国の影があるのではという噂も出てきている。
ただもし本気でオリンピックをやりたいなら、世界中同時にロックダウンを行い、たとえば三週間新規感染者が出なかった国から解除でき、解除できた国同士は自由に行き来できるようにするとかすればいいと思う。台湾などは即日解除できそうだし、どこの国も競っていち早く解除しようとするのではないかと思う。今からやれば夏のオリンピックの頃には、コロナはほぼ根絶できるのではないかと思う。
それでは「旅人と」の巻の続き。
初裏。
九句目。
鱸てうじておくる漢舟
神垣や次第にひくき波のひま 全峰
「鱸釣じて」から藤江の浦、明石の連想で、『源氏物語』の明石巻の住吉の神によって海の静まる様を付ける。
全峰も其角門で、其角撰『続虚栗』に、
一すじに芝ふみからすさくら哉 全峰
芥子の花ともにうつむく泪かな 同
旅人に村とことはるきぬた哉 同
雪の日や柴が日比の道近し 同
などの句がある。
十句目。
神垣や次第にひくき波のひま
齢とをしれ君が若松 嵐雪
年を重ねても若松のような若々しい君(主君、天皇どちらとも)に、神も天下の浪を鎮めて下さると、賀歌の体になる。
嵐雪は言わずと知れた芭蕉の門人。
十一句目。
齢とをしれ君が若松
酒のみにさをとめ達の並ビ居て 執筆
五月女達はたくさんいる孫たちだろうか。爺さんは酒を飲み、子孫繁栄して花笠音頭ではないが目出度目出度の若松様だ。花笠音頭はそんなに古いもんではなく昭和の歌だが。
十二句目。
酒のみにさをとめ達の並ビ居て
卯月の雪を握るつくばね 芭蕉
いくら江戸時代が寒冷期だといっても、さすがに旧暦四月の標高八七七メートルの筑波山に雪はなかっただろう。これは、
花は皆散りはてぬらし筑波嶺の
木のもとごとにつもる白雪
法眼兼譽(続千載集)
だったのではないか。
あるいは卯月の雪は卯の花の花びらだったのかもしれない。筑波山の見える所で田植をしていると、苗と一緒に卯の花の花びらをつかむことになる。打越に松があるので卯の花は出せないため、あえて卯の花を抜いたのであろう。
十三句目。
卯月の雪を握るつくばね
鰥つる袖つくばかり早瀬川 由之
「鰥」は本来は魴鰥(ホウカン)のように大魚の名だったが、やもお(男やもめ)の意味もある。それを「やまめ」と読ませている。「鱸釣じて」から五句去り。
「袖つくばかり」は、
逢瀬川袖つくばかり浅けれど
君許さねばえこそ渡らね
源重之
の歌がある。逢瀬川は福島郡山の歌枕だが、早瀬川は、
早瀬川みを溯る鵜飼舟
まづこの世にもいかがくるしき
崇徳院(千載集)
の歌があるが、どこの川なのかわからない。王朝時代に鵜飼いというと大井川(嵐山を流れる今の桂川)が歌に詠まれていた。
ヤマメ釣る早瀬川は袖の付くほど浅いけど、卯月だというのに雪を握る、となる。
十四句目。
鰥つる袖つくばかり早瀬川
蘿一面にのこる橋杭 其角
「蘿」は「つた」と読む。普段は浅い早瀬でも、台風で増水すれば橋を流してしまい、橋杭だけが蔦の絡まった状態で残っている。
十五句目。
蘿一面にのこる橋杭
道しらぬ里に砧をかりに行 枳風
砧というと砧を打つ音が漢詩や和歌に詠まれ、俳諧でたいてい音を詠むのだが、「碪をかりに行」というのは珍しい。この場合は砧の道具、木づちと石の台のことになる。
橋は落ちて道も分からぬ里でわざわざ砧の道具を借りに行くのは、一体どういう人だったのか。
十六句目。
道しらぬ里に砧をかりに行
月にや啼ん泊瀬の篭人 文麟
長谷寺に籠る人を泣かせるために借りに行くのか。
砧打ちて我にきかせよや坊が妻 芭蕉
という『野ざらし紀行』の旅で吉野の宿坊で詠んだ句があるが、ここでは長谷寺に籠る人に聞かせよということか。
十七句目。
月にや啼ん泊瀬の篭人
葛篭とく匂ひも都なつかしく 仙化
これは『源氏物語』の玉鬘で、夕顔の娘で肥後に預けられていた玉鬘が京の都に帰ろうとするとき、途中で初瀬に籠り、夕顔の侍女だった右近と再会する。その時に都で嗅いだ記憶のある匂いがあれば、懐かしくなる。
十八句目。
葛篭とく匂ひも都なつかしく
おもはぬ事を諷ふ傀儡 全峰
「傀儡(かいらい)」はここでは人形ではなく傀儡女(くぐつめ)のことであろう。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「傀儡師とも書き,〈くぐつまわし〉また〈かいらいし〉などともいう。操り人形を指してもいう。平安末期,大江匡房(おおえのまさふさ)の《傀儡子記》によると,彼らは集団で各地を漂泊し,男は狩猟をし,人形回しや曲芸,幻術などを演じ,女は歌をうたい,売春も行った。のち寺社に帰属して各地で人形回しをするものもでき,摂津西宮を根拠に夷(えびす)人形を回し歩く芸団なども現れた。これら人形回しの流れは,人形浄瑠璃の成立を促したが,一方,胸にかけた箱から人形を出して回す首かけ芝居の形で,江戸時代まで大道芸として存続した。」
とある。
都から流れてきた傀儡女だったのか、箱から人形を取り出すと都の懐かしいお香の匂いがして、思いもよらぬ都の歌を聴くことができて懐かしくなる。
一巡目の順番通りだと魚児の番だが、ここからは出がちになったか。
十九句目。
おもはぬ事を諷ふ傀儡
途中にたてる車の簾を巻て 芭蕉
途中は「みちなか」と読む。傀儡子は情報伝達の役目もあったのか、思わぬ情報に牛車に乗った貴族も思わず簾を開けて聞き入る。
二十句目。
途中にたてる車の簾を巻て
沖こぐ舟にめされしは誰ゾ 由之
道の車に沖の船と違え付けになる。沖こぐ舟には、
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよ海人の釣り舟
小野篁(古今集)
のような配流になった同僚が暗示される。
二十一句目。
沖こぐ舟にめされしは誰ゾ
花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき 嵐雪
浪花(なにわ)のことか。「波の花」は波の白さが花のようだという比喩だが、「花の波」は花が波のようだという意味になる。「花ゆへに名の付ク波」が波に花の名前がついているという意味なら波の花になる。沖に船もある。波の花、浪花という名前は珍しい。
二十二句目。
花ゆへに名の付ク波ぞめづらしき
別るる雁をかへす琴の手 挙白
これは「雁の琴柱(ことじ)」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「雁が群をなして飛んで行くさまを、琴柱が並んでいるさまにたとえていうことば。連なって飛び行く雁。かりがねの琴柱。《季・秋》
※老若五十首歌合(1201)「たまづさのかきあはせたるしらべかなかりの琴ちに過る松風〈慈円〉」
とある。春の帰る雁を琴柱に見立て、琴を掻き鳴らす手があたかも雁を帰らせているように見える。
挙白は初登場になる。其角門。其角撰『虚栗』に、
雛若は桃壺の腹にやどりてか 挙白
香ヲ折ルの坐頭や杜若あやめ 同
落葉見にたが蹄せし霜馬峯 同
鰤ばかり霙にそばへたる重し 同
などの句がある。
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