2020年11月10日火曜日

  今日の朝は半月よりやや細い月が見えた。まだ長月。「十三夜」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   埃かき流す風呂の水遣り
 きり麦をはや朝かげにうち立て  凉葉

 蕎麦は蕎麦切り、それだと麦は麦切りになりそうだが「きり麦」になる。麦を水を加えてこねて、それを細く切ったもの。うどんより細く、素麺のように油を使ったりはしない。今は「ひやむぎ」として知られているが、かつては暖かい「熱麦(あつむぎ)」もあったという。温麺(うーめん)という名前で残っている地方もある。
 「朝かげ」は「影」に「光」の意味がある所から、朝の光を言う。朝日を浴びながら切り麦を打ち、風呂の水でゴミを流す。
 八句目。

   きり麦をはや朝かげにうち立て
 幸手を行ば栗橋の関       芭蕉

 幸手は春日部の先にある日光街道の宿場で、埼玉は昔は麦の産地だったから、うどんやきり麦が名物だったのだろう。切り麦を食べて朝日の中、「うち立て」を「すぐに旅立って」の意味に取り成す。
 幸手の先に栗橋があり、ここで利根川を渡ると茨城県古河市になる。この渡しの所に栗橋の関があった。
 九句目。

   幸手を行ば栗橋の関
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

 日光街道は日光に近づくと杉並木になるが、幸手の辺りは松並木だった。このあたりのお寺はその両方を備えているかのように、きちんと剪定された松と杉がある。
 十句目。

   松杉をはさみ揃ゆる寺の門
 ひとり娘の冬のこしらへ     濁子

 「はさみ揃ゆる」を裁縫の裁ち鋏としたか。寺の一人娘の冬場の内職とする。
 十一句目。

   ひとり娘の冬のこしらへ
 梟の身をもかくさぬ恋をして   岱水

 後に支考が著す『梟日記』という紀行文があるが、梟は蓑笠で膨らんで見える旅人の姿の喩えでもある。

 「されば痩藤に月をかかげ、破笠に雲をつつむといふ、むかしのひとのあとをまねびたるにはあらで、風雅は風雅のさびしかるべき、この法師の旅姿なり。
 
 月華の梟と申道心者」(支考「梟日記之序」より)
 其角は自らの旅姿を梟ではなく木兎(みみずく)に喩え、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮     其角

という句を詠んでいる。
 梟は高い枝にとまり、あまり物陰に隠れたりしない。娘の世話にと言って通ってくる。
 十二句目。

   梟の身をもかくさぬ恋をして
 なみだくらべん橡落る也     芭蕉

 比喩ではなく本物の梟も恋をして泣いているのだろうか。泪ではなく橡の実が落ちてくる。
 十三句目。

   なみだくらべん橡落る也
 うす月夜麻の衣の影ぼうし    史邦

 秋の朧月は薄月という。「麻の衣」は僧衣であるとともに喪服をも意味する。「影法師」に掛けて僧形で喪に服する姿から、死別の泪の落ちるのと橡の実の落ちるのとを重ね合わせ、薄月も涙で霞む。
 十四句目。

   うす月夜麻の衣の影ぼうし
 客まつ暮に薪割秋        杉風

 前句の麻衣の影法師を喪服ではなく普通の隠遁僧として、客をもてなすために薪割りをしている。
 十五句目。

   客まつ暮に薪割秋
 末広を釘にかけたる祢宜の家   濁子

 「末広」は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注に「中啓(ちゅうけい)」とある。中啓はウィキペディアに、

 「中啓は親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、銀杏の葉のように扇の上端がひろがる。「啓」とは「啓く」(ひらく : 開く)という意味で、折り畳んでいながら上端が「中ば(半ば)啓く」という状態から中啓と名付けられた。」

とあり、

 「神社でも神職が、神事で中啓を使用する。帖紙に中啓を添えて懐中したり、神葬祭の遷霊儀式で打ち鳴らしたりする。また、白竹、鈍色、黒色、朱色などのタイプがあり、ぼんぼり、ぼんぼり扇とも呼ぶ[1]。また出雲大社では神職が笏の代用とする風習もある。」

という。
 前句の薪を割る人を祢宜とする。
 十六句目。

   末広を釘にかけたる祢宜の家
 塵うちはらふ片器の食つみ    凉葉

 「食(くい)つみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 正月に年賀客に儀礼的に出す取りざかなで、蓬莱台や三方(さんぼう)に米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、勝栗(かちぐり)、昆布、野老(ところ)、干柿などをそえたもの。お手かけ。《季・新年》
  ※俳諧・炭俵(1694)上「喰つみや木曾のにほひの檜物〈岱水〉」

とある。
 「片器(へぎ)」は片木で、薄く削った木で作ったお盆をいう。
 扇を釘に掛けるような祢宜ということでの位付けであろう。
 十七句目。

   塵うちはらふ片器の食つみ
 先ヅ汁と筆をはじむる初花に   芭蕉

 正月で花の定座なので「初花」という言葉を用いるが、ここでは単に正月のことであろう。「花の春」と同様に見ればいいのではないかと思う。
 正月の朝はまずお雑煮だが、それと前句を文人と見て、お雑煮と筆初めで始まるとする。
 十八句目。

   先ヅ汁と筆をはじむる初花に
 鶯啼て旅になすそら       史邦

 旅で迎える正月とする。

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