2020年11月7日土曜日

  コロナの方も均衡が悪い方に破れてきたというか、二日続けて国内新規感染者が千人を越えたと思ったら、今日は千三百人を越えた。第三波の始まりか。
 欧米に比べれば大したことないかもしれないが、日本はまだ本当のコロナの怖さを知らないだけかもしれない。
 色々不安はあるが、とりあえず「青くても」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   荷とりに馬子の海へ飛こむ
 町中の鳥居は赤くきよんとして  嵐蘭

 「きよんと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘副〙 他に飛び抜けて高く目立つさま。きょいと。
  ※俳諧・深川(1693)「町中の鳥居は赤くきょんとして〈嵐蘭〉 吹もしこらず野分しづまる〈岱水〉」

とある。用例がこの句だった。「きょいと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」では、

 「[形]《「けうとい」から転じた「きょうとい」の音変化。近世語》
  1 はなはだしい。とんでもない。
  「滅相な―・いこと言はんす」〈咄・無事志有意〉
  2 みごとである。すばらしい。
  「はあ、鯖 (さば) のすもじかいな。こりゃ―・い―・い」〈滑・膝栗毛・七〉」

とある。「気疎(けうと)い」は本来マイナスの意味の言葉だが、「いみじ」や「やばい」同様いい意味に転じて用いられたのだろう。
 赤鳥居というと稲荷系か。稲荷と言うと二月の最初の午の日は初午詣で賑わい、馬に縁がある。前句を馬子たちの祭りかなにかとしたか。二月だと寒中水泳だが。
 二十句目。

   町中の鳥居は赤くきよんとして
 吹もしこらず野分しづまる    岱水

 「しこらず」は醜(しこ)らずで悪くならないということか。「凄し」も「醜(しこ)し」から来ているという。赤鳥居の力で野分もひどくならずに静まる。
 二十一句目。

   吹もしこらず野分しづまる
 革足袋に地雪駄重き秋の霜    洒堂

 ウィキペディアによると、

 「足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。」

という。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の八句目に、

   かきなぐる墨繪おかしく秋暮て
 はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

の句があるように、元禄の頃にはメリヤスの足袋も一般化してきた。
 地雪駄は、きもの館創美苑のサイトの「きもの用語大全」によると、

 「江戸でつくられた「雪駄」のことです。貞享(1684~1687)ごろまでは、「穢多(えた)雪駄」のことをいい、真竹の皮の表に馬皮の裏をつけたもので、下品とされました。」

という。革足袋も地雪駄も動物の皮が用いられている辺り、その種の人たちを連想させたのかもしれない。災害で死んだ家畜などの処理に出動していたか。
 二十二句目。

   革足袋に地雪駄重き秋の霜
 伏見あたりの古手屋の月     芭蕉

 「古手屋(ふるてや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。」

 革足袋も地雪駄も元禄の頃には時代遅れになり、伏見あたりの古道具屋に行くとあるというイメージだったか。
 二十三句目。

   伏見あたりの古手屋の月
 玉水の早苗ときけば懐しや    岱水

 玉水は井出の玉水で、古来山吹と蛙が詠まれてきた。

 かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり
     花のさかりにあはましものを
                よみ人しらず(古今集)
 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く
     井手の里人いまやとはまし
                藤原基俊(千載集)
 山城の井手の玉水手に汲みて
     たのみしかひもなき世なりけり
                よみ人しらず(新古今集)
 山吹の花の盛りになりぬれば
     井手の渡りにゆかぬ日ぞなき
                源実朝(金塊集)

など多数ある。伏見より五里ほど南にある。
 伏見の早苗については『連歌俳諧集』の注に、

 伏みつや沢田の早苗とる田子は
     袖もひたすら水渋つくらん
                藤原俊成(夫木抄)
 植ゑくらす伏見のたごの旅寐には
     早苗ぞ草の枕なりける
                後法性寺入道関白(夫木抄)

の和歌が引用されている。
 この場合の「なつかし」は心惹かれるという意味だろう。伏見の早苗も歌に詠まれていたが、井出の玉水の早苗というと山吹にかじか蛙の声のする美しい田園風景が想像される。
 二十四句目。

   玉水の早苗ときけば懐しや
 我が跡からも鉦鞁うち来る    嵐蘭

 鉦鞁は鉦鼓のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 (「しょうご」とも)
  ① いくさで、合図などに用いるたたきがねと太鼓。
  ※続日本紀‐霊亀元年(715)正月甲申「陣二列鼓吹騎兵一。元会之日。用二鉦鼓一自レ是始矣」 〔漢書‐東方朔伝〕
  ② 雅楽に使う打楽器の一つ。青銅または黄銅製の皿形のもので、釣枠(つりわく)につるし二本の桴(ばち)で打つ。野外舞楽用の大鉦鼓(おおしょうご)、管弦の演奏・屋内舞楽用の釣鉦鼓(つりしょうご)、行進(道楽(みちがく))用の荷鉦鼓(にないしょうご)の三種がある。通常、釣鉦鼓をさし、鼓面直径約一五センチメートル。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「稲子磨(いなごまろ)賞(め)で拍子(ほうし)付く、さて蟋蟀は、鉦この鉦このよき上手」
  ③ 仏家で、勤行のときなどに打ちならす円形青銅製のたたきがね。台や首につるしたり、台座に乗せたりして用いる。
  ※今昔(1120頃か)一二「其の南に大皷・鉦皷各二を㽵(かざ)り立て」

とある。この場合は③の意味で、小さな撞木で叩く小型のゴングのようなものをいう。
 井出の玉川へ旅をすると、後ろから西国三十三所の巡礼者の鉦鼓の音が近づいてくる。
 二十五句目。

   我が跡からも鉦鞁うち来る
 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

 『連歌俳諧集』の注、『校本芭蕉全集 第五巻』の注ともに謡曲『安宅』によるものとする。これは謡曲『安宅』のストーリーを知らないと意味がよくわからないので、俤ではなく本説になる。
 安宅の物語は弁慶・義経の御一行十二人が山伏に変装して陸奥平泉の藤原秀衡の元に向かう途中、富樫泰家が臨時に設けた加賀の安宅の関を通ろうとしたところ、関の前に山伏の首が切って掛けてあり、これはそのまま通ろうとするとやばいということで弁慶が策を講じて、無事通過することになる。
 このとき義経を体の弱い下っ端の剛力に変装させ、後からよろよろついてくるようにさせたところから、「我が跡からも鉦鞁うち来る」は弁慶から見た義経のことになる。
 なお、安宅関はそのが長いこと所在がわからなかったことから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも立ち寄った記述はない。
 二十六句目。

   山伏を切ッてかけたる関の前
 鎧もたねばならぬよの中     洒堂

 元禄の世は平和だったけど、源平合戦の頃の乱世を思えば、鎧がなくては生きていけないような世の中だったな、と思う。
 二十七句目。

   鎧もたねばならぬよの中
 付合は皆上戸にて呑あかし    嵐蘭

 「付合」はこの場合「つきあい」で人が寄り集まることをいう。つきあうこと。「つけあい」と読むと連歌や俳諧の用語になる。
 まあ、何となく上戸(大酒飲み)というと豪傑のイメージがあり、酔えば大口叩く。俺はいつか鎧を着るような身分になるんだ、と気炎を上げるところか。
 二十八句目。

   付合は皆上戸にて呑あかし
 さらりさらりと霰降也      岱水

 霰ふる夜は下戸だと寒いだろうな、というのは酒のみの思うところか。酒飲みも飲んでるうちはいいが、そのまま寝てしまうと明け方には動かなくなってたりして。気をつけよう。
 二十九句目。

   さらりさらりと霰降也
 乗物で和尚は礼にあるかるる   洒堂

 霰が降っても偉いお坊さんは立派な駕籠に乗って檀家を廻る。そこいらの乞食坊主とはわけが違う。
 三十句目。

   乗物で和尚は礼にあるかるる
 たてこめてある道の大日     芭蕉

 和尚は駕籠に乗って通過してしまうから、道端の大日堂は放ったらかしになっている。

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