今日は旧暦九月二十八日。小の月なので九月は明日で終わり。ゆく秋ぞ。
あと二日あるので半歌仙でも。
元禄七年九月二十一日、大阪の車庸亭での興行。五日後の二十六日には「此道や行人なしに秋の暮 芭蕉」を発句とした半歌仙興行が行われ、その翌日には園女亭で「白菊の眼に立て見る塵もなし 芭蕉」の歌仙興行が行われ、これが芭蕉にとっての最後の俳諧興行になる。
発句
菊月廿一日湖江車庸亭
秋の夜を打崩したる咄かな 芭蕉
秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶。打倒秋の夜!って感じか。
芭蕉さんの病気もかなり進行していたことだろう。だからといって辛気臭くなってもしょうがない。笑って病気何てぶっ飛ばそう、という意味もあったのだろう。
脇
秋の夜を打崩したる咄かな
月待ほどは蒲団身にまく 車庸
長月ともなると夜は寒くて、蒲団にくるまって月を待ちながら、秋の夜をぶっ飛ばすような俳諧をしましょう、と受ける。
十七日は立待月、十八日は居待月、十九日は寝待月、二十日は更待(ふけまち)月、二十一日は何になるのだろうか。
第三。
月待ほどは蒲団身にまく
西の山二はな三はな雁鳴て 洒堂
『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注には、「はなは組の意。」とある。
前句を二十一日の月待ではなく夕方の月待とし、夕暮れの西の山に向かって雁が鳴きながら飛んで行く。
四句目。
西の山二はな三はな雁鳴て
しかゆる牛の能うごくなり 游刀
「しかゆる」は中村注に「底本通りとすれば、取替えたの意と解される」とある。
関西では荷物運びに牛が多く用いられていた。多分古代からの平坦で広い直線道が多いからであろう。牛を別の牛に取替えたら仕事もはかどり、雁の列になって飛ぶ夕暮れまでの無事終えることができたということか。
游刀は膳所の人で能楽師だったという。
五句目。
しかゆる牛の能うごくなり
舅の名をまんまと貰ふ真性者 諷竹
名を貰うというのは襲名のことだろうか。妻の父の名を貰うということは、要するに娘婿、婿養子ということだろう。真性者はここでは天性の才能のある者ということか。
前句の取替えた牛がよく動くから、実の息子よりも義理の息子に変えた方がよく動くとしたか。
諷竹は之道のこと。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、
「東湖は初期の俳号、元禄3年6月、芭蕉が幻住庵滞在中に尋ねて蕉門に入門。これを機に「之道」と改名。楓竹は晩年(元禄10年)の俳号。」
とある。「芭蕉関係人名集」は何かと思ったら山梨のサイトだった。
六句目。
舅の名をまんまと貰ふ真性者
小袖出して寐たる大年 惟然
義父の名を襲名した真性者は借金取りに追われることもなく、大晦日は小袖を着てさっさと寝る。昔は初詣も除夜の鐘もなかったから、大晦日は早く寝るものだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿