今日は一日曇りだったが、夜になって晴れた。神無月の十五夜の月が見える。
コロナの感染が急に広まったのは温度湿度紫外線の低下減少といった季節的なものだというのはわかる。そういう状況でこれまで通りのウイズ・コロナでは対応できないから、生活を変えなければならない。そのような時に今まで通りGo ToトラベルやGo Toイートを続けようとしていることが問題なのであって、Go ToトラベルやGo Toイートが感染拡大の直接の原因だと言っているわけではない。
だからといってGo ToトラベルやGo Toイートが原因でないから続けていいということではない。
もちろんGo ToトラベルやGo Toイートは強制ではないから、行かない自由を行使すれば無効化できる。誰も行かなくなれば、やっても意味ないということで自ずと止めることになる。キャンペーンに踊らされている連中にも責任がある。またグルメ番組で旅行や外食を日々煽っているマス護美の罪も大きい。
野党も「Go Toトラベルが原因だというエビデンスがない」という政府の主張に対して、「Go Toトラベルが原因ではないというエビデンスがない」なんて反論するのは愚の骨頂。そういうのを悪魔の証明という。「最初の原因でなくても、今後拡大させる恐れがあるならやめるべき」というのが正論。
それでは「俳諧問答」の続き。
「一、昔も近年も、前書する事、皆其発句の講尺して、前書と云物にあらず。
前書して、講尺の上にてきこえる句などハ、よき句にハあらず。前書と云ハ、其句の光を添る事也。
一年江戸にて、晋子が句兄弟あめる時、予に語りて云ク、越人がけしの句ハ、少いひたらず。慥ニけしニしてハ取がたし。其けしの句を返して、
ちる時ハ風もたのまずけしの花
とせしと語侍る。
予云、されバ予ハ此越人がけしの句にて、翁の名人を発明すといへバ、晋子が云、如何。答テ云、此句けしにてハいひたらず。故ニ『僧にわかるる』と云前書して、餞別の句ニなし、さるミのニハ入給ふといへば、晋子うれしがりて、此事書入べしとて、前書の事をかけり。越人がけしハ、慥ニ師の前書にて、一句の光をバましたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161~162)
越人の句は『猿蓑』に、
別僧
ちるときの心やすさよ米嚢花 越人
の形で収録されている。「別僧」は「僧に別るる」と訓じる。
ちる時ハ風もたのまずけしの花 越人
はその原案と思われる。これだと芥子の花の散る様だけを詠んだ句になってしまう。風もなく散るというと、
ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
紀友則(古今集)
の歌が思い浮かぶ。それを芥子に変えただけになってしまう。
そこで芭蕉は「別僧」の前書きを入れ、句も情景より心情を重視した「心やすさよ」に変えている。
「路通が月の山の句合にハ、只けしの句ニして前書なし。予此時、路通が未練なる事をしれり。
師在世の時、此事きかず。先生ハ此集の撰者なれバ、しり給ハむ。実ニ餞別の句にてありや、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162)
「路通が月の山の句合」は路通撰『俳諧勧進牒 附月山発句合』(元禄三年刊)で、上巻の末尾に「月山発句合」が収録されている。ここには、
「二番 いばらがき
鄙びたる香ばし悪むな茨垣 宵花
けしのはな
散ときのこころやすさよ芥子の花 越人
折々は野渡の船曳、あしまの径を過、孤村のしほり酒をも侘得たる風情、寄の作意といふべきか。続に見ゆるけしの花は、紅白の色をもて興とせず、かろくうり散たるをうらやみたり。見いれ有所猶殊勝。」
とある。
前書きは芭蕉が『猿蓑』だけに与えたもので、このことを路通が悔しがってたようだ。去来先生は『猿蓑』の撰者だったから何か事情を知らないか、というわけだ。
許六は本来芥子の花の詠んだだけだった越人の句を、芭蕉が餞別の句に作り直したのではないかと疑っているようだ。
「予が集の時、李由が云、残暑の句なし、入たしといひて、『下帯に残る暑さや』と云事をいへり。下五字なし。予に談合して色々置共、喰合ものなし。予云、此句下五字あり共、一句おもく成てむづかしからむ。只此ままにて入られよといひて、
下帯のあたりに残る暑さかな
と一句ニのべたり。此句斗にてハいひたらず。是越人がけしの場所ニて、前書入る句也。則、『贈清貧僧』といふ題を付たり。是此格也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162~163)
「下帯に残る暑さや」も「鍋ぶた一ッ冬籠」や「足軽町の桃の花」の同様で、これだけで趣向が完結してしまっているため、付け加えるのが難しい。取り合わせは出来ていて、それを囃す適当な言葉もなく、結局「あたりに」を加えてこれで一句にしたが、間延びした感じが残ってしまった。
「贈清貧僧」という前書きで許六としては機転を利かせたのだろう。まあ、一つの物語を作ったわけだ。芭蕉の先の前書も「作り」だと見てのことだろう。「信濃路を過ぐるに」の例もあるし。
「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)
これはよくわからない。「こんや」は紺屋のことだろう。「手染の窓と作例の論あり」とあるから、染物屋の紺屋だろう。
その紺屋の窓が何か特殊なものだったのか、許六の言う「血脈」だから、不易だとか流行だとか理屈を言う以前の、初期衝動的な面白さということなのだろう。
「鍋ぶた一ッ冬籠」「足軽町の桃の花」にはなくて、「田の草におハれおハれて」「株干すわらの日のよハり」には多少ある物が「血脈」だという。あるいは今の言葉で言う「エモ」に近いのかもしれない。
まあ、多分「紺屋の窓のしぐれ」や「菜の花に紺屋の窓」は血脈なのだろう。紺屋の窓だから紺色の布がカーテンのようにかかってたりしたのか。取り合わせはそんな重要ではなく「紺屋の窓」が血脈のようだ。関西では紺屋が穢多と結びついていたことは以前どこかで触れた。
発句道具は発句のネタとして面白い取り合わせで、平句道具はどちらかというと放り込みのような字足らずの時に付け加えるようなものだろう。「紺屋の窓」に「時雨」「菜の花」はその中間のような第三道具ということか。
「一、ひととせ俳諧せし時、瓜の泥によごれたるハおかしとて、六句めニ
泥によごるる瓜の網の目
と云句せし。其次のとし、翁の句ニ、
朝露によごれて涼し瓜の泥
と云句出たり。初て発句の道具たる事を知れり。あたら瓜の泥を平句にして、師ニ先ンをこされたること無念也。是、眼の明ならざる故也。此泥にて、慥ニ場所をしりぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.164~165)
芭蕉が人の付け句から発句の発想を得た例は、多分幾つもあるのではないかと思う。一番わかりやすいのは『野ざらし紀行』の、
月見てやときはの里へかかるらん
よしとも殿ににたる秋風 守武
の句から、
義朝の心に似たり秋の風 芭蕉
の発句を作った例であろう。
取られた方は「やられた」と思うのだろう。
この場合泥に汚れた瓜だけでは発句にはならない。「朝露」に「凉し」があって初めて発句になるのではないかと思う。義朝の句も「心に似たり」があって発句になる。
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