今の中国は社会主義ではなく、グローバル市場を拒否した、強力な国家権力によって統制された資本主義経済で、一国資本主義とでもいうべきものだ。これが可能なのは中国が人口が多く広大で資源も豊富なため、外国資本との貿易にそれほど依存する必要がなかったからだろう。
かつてアジアにはたくさんの開発独裁国家があったが、その多くはある程度の経済成長を果たすと民主化を余儀なくされた。中国はあまりにも大きく自己完結していたが故に生き残った。
この一国資本主義が危険なのは、戦前のブロック経済と同様、相互に依存しない孤立した経済であるため、戦争とまでは行かなくても、他国に対し敵対的なふるまいをすることに歯止めになるものがないということだ。
ある程度国内で完結した経済を保っていれば、経済制裁もなかなか効果を発揮できない。外との戦争さえ起こさなければ、国内でホロコーストやジェノサイドをやっても手出しをできない。それをわかっているから中国は戦争を起こさないが、戦争以外なら何でもやる。
トランプさんも散々手を焼いたが、バイデンさんに何か手があるのだろうか。
それでは「青くても」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十一句目。
たてこめてある道の大日
擌揚ゲて水田も暮る人の声 岱水
「擌(はご)」は原文では木偏になっているがフォントが見つからないので手偏の方を用いるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 鳥を捕える仕掛けの一つ。竹の棒や木の枝、わらなどに黐(もち)を塗り、田の中などの囮(おとり)のそばに置いて、鳥を捕えるもの。はご。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※類従本賀茂女集(10C後)「はかにかかれる鳥、ゑにうたれんことをしらずして」
〘名〙
① =はが(擌)〔羅葡日辞書(1595)〕
② ①にかかった鳥が身動きできないように、借金で身動きできないこと。借財。負債。」
とある。
大日堂の前を擌で鳥を獲って殺生した人が通るというのは、まあ俳諧ではお約束というところか。
「めづらしや」の巻二十六句目。
千日の庵を結ぶ小松原
蝸牛のからを踏つぶす音 露丸
「海くれて」の巻二十一句目。
生海鼠干すにも袖はぬれけり
木の間より西に御堂の壁白く 工山
など殺生ネタ。
三十二句目。
擌揚ゲて水田も暮る人の声
筵片荷に鯨さげゆく 嵐蘭
擌で小鳥を取って帰る農民とすれ違いざまに、天秤棒の片方に大きな鯨の肉の塊をぶら下げて帰る漁師。「へっ、おまえら小せいな」とでも呟いてそうだ。
三十三句目。
筵片荷に鯨さげゆく
不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市 芭蕉
池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)東海道五十三次の三十九番目の宿場で愛知県知立市の牛田ICの辺りにあった。古くから馬市や木綿市が立ったという。三河湾で獲れた鯨を干したものも売られていたか。
貞享元年、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で、
尾張の国あつたにまかりける比、
人々師走の海みんとて船さしけるに
海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉
の発句を詠んだ時の脇が、
海くれて鴨の声ほのかに白し
串に鯨をあぶる盃 桐葉
だった。
三十四句目。
不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市
ごを抱へこむ土間のへつつゐ 洒堂
「ご」は燃料にする松の落葉のことらしい。貞享四年に東三河吉田宿で詠んだという、
ごを焼いて手拭あぶる寒さ哉 芭蕉
の句がある。「へっつい」は竈のこと。
木綿市があるというので池鯉鮒に宿では常に炊飯用のたくさんの「ご」を用意している。
三十五句目。
ごを抱へこむ土間のへつつゐ
米五升人がくれたる花見せむ 嵐蘭
宿の台所で花見にと米五升をくれた人がいたのだろう。一升は十合で、一人一合(茶碗二杯)としても五十人は食える。盛大な花見になりそうだ。
挙句。
米五升人がくれたる花見せむ
雉子のほろろにきほふ若草 岱水
雉はほろほろと鳴くと言われているが、実際は羽を打つ音だという。
ウィキペディアによると、
「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、「ケーン」と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、「母衣打ち(ほろうち)」と呼ばれる。」
という。「けんもほろろに」という言葉はそこから来たという。
春の野のしげき草葉の妻恋ひに
飛び立つきじのほろほろとぞ鳴く
平貞文 (古今集)
の歌がある。
大勢で花見をして気勢を上げる姿は、若草の中で母衣打ちをする雉のようだ。ということで花見も盛り上がった所でこの一巻はめでたく終了する。
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