さて今日から俳諧では冬になる。神無月朔日。神様は出雲に行ってしまい、恵比寿様が留守を預かる。
気になるのはやはりコロナだね。これまで日本人は運が良くてたまたま暖かくなってから第一波が来ただけなのか、それとも日本人だけが特別コロナに強いのか。自ずと結論は出るので、今はただ極力感染につながる行動を控えながら見守るしかない。
こういうので脱亜入欧は御免だ。
さて神無月の俳諧ということで、今回は貞享四年十月十一日に行われた芭蕉の『笈の小文』の旅の餞別会として行われた世吉(四十四句)興行を取り上げてみようと思う。場所は其角亭だという。
発句。
十月十一日餞別會
旅人と我名よばれん初霽 芭蕉
有名な句で説明するまでもあるまいとは思うが、
世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇
をふまえている。
人生は旅。その旅の途中の時雨の宿りのように、つらいけど軒を貸してくれる人もいる。ここでは人生という旅と実際の旅とを重ね合わせて、旅人になるんだという決意をする。
「霽」は「はれる」という字だが、ここでは「しぐれ」と読む。雨がやんで晴れるという意味の字で、日本では時雨の意味で用いられている。
時雨が晴れれば月も出る。こういうと何か「水戸黄門」の唄ではないが、「人生楽ありゃ苦もあるさ/泪の後には虹も出る」みたいに聞こえる。
脇。
旅人と我名よばれん初霽
亦さざん花を宿々にして 由之
『野ざらし紀行』は秋に旅立って、山茶花の季節に名古屋で『冬の日』の興行を行った。それを思い起こしてのことであろう。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
たそやとばしるかさの山茶花 野水
の句によって、旅の笠の山茶花を旅の宿とする。
由之(ゆうし)は其角の門人で、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)には、
「由之は磐城平藩内藤家の家人の井出長太郎という人物で、この句会の主催者である。観水の素性は不明だが、由之・観水の二人は其角派の新人である。彼らはこの時芭蕉と初対面であったと思うが、彼らばかりではなく魚児や全峰もこの時が芭蕉と初対面であったと思う。芭蕉送別の句会は其角派の新人を芭蕉に紹介する場でもあったわけである。」
とある。
磐城平藩三代藩主の内藤左京大夫義泰(風虎)の次男内藤政栄(露沾)が今回の『笈の小文』のスポンサーで、『笈の小文』本文でも、
「時は冬よしのをこめん旅のつと
此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初(はじめ)として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、或は草鞋の料を包みて志を見す。かの三月の糧(かて)を集るに力を入れず、紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携へ来りて、行衛(ゆくへ)を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」
と紹介されている。
今回由之が脇を務めているのは、露沾の代理人の意味もあるからであろう。
磐城平藩内藤家というと桃隣の「舞都遲登理」の旅でわざわざ小名浜を経由したことが思い出される。領内にみちのくの有名な歌枕になぞらえた名所をたくさん作って混乱させた犯人は風虎だったか。小名浜は宗因も訪れていて、俳諧の盛んな土地だった。
由之は其角撰『続虚栗』に、
つゆつゆと焼野にはやき蕨かな 由之
何事に人走るらん花ざかり 同
七夕にかされぬ旅のね巻哉 同
月満て欄干うごく今宵哉 同
などの句が入集している。
第三。
亦さざん花を宿々にして
鶺鴒の心ほど世のたのしきに 其角
「鷦鴒」は「かやぐき」と読む。『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、
「荘子・逍遥遊に、小さい斥鷃(カヤグキ)が我が身に相応して鵬の飛ぶを笑った話あり。『斥鷃』は注に『かやぐきと訓ず、俗ニ云フみそさざい』(毛利貞斎荘子俚諺抄)とある。」
とある。
前句の「山茶花を宿々に」に応じて、木の小さな茂みに暮らすミソサザイが山茶花を宿にしているように、世の中を楽しもう、とする。
ここには『荘子』の寓意である鵬との比較での小物という意味はない。日本は一君万民の一億総臣下の国、天皇一人を君として万民はみな臣民ということで、だれも鵬になろうともしないし、なりたくもない。まあ、希に道鏡や平将門や織田信長のような例外はいるが、みんな失敗した。そんなおおそれた望みを持たず、人生を旅として山茶花の宿々を楽しむのが日本人だ。
永遠の命を望まない、この世の王となることを望まない、それが日本人だ。
四句目。
鶺鴒の心ほど世のたのしきに
粮を分たる山陰の鶴 枳風
鶴は鶴氅衣を着た中国の隠者のことか。鶴氅衣というと江戸中期に浦上玉堂が着ていた。前句を村人として、隠者に食料を提供し、学や遊びの手ほどきを受ける。
枳風も其角門で、其角撰『虚栗』に、
初礼や富士をかさねて扇持 枳風
匂ふらんけふ去人と山ざくら 同
君火燵うき身時雨の小袖哉 同
などの句がある。
五句目。
粮を分たる山陰の鶴
かけありく芝生の露の浅緑 文麟
『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「鶴が芝生をあちこち駆け回るさま」とあるが、鶴って水辺にいるもんで、芝生の上を走ったりするんだろうか、よくわからない。芝生を駆け歩くというと馬が連想されるが。
文麟は『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)に、
「文麟が何を生業としていたか不明だが、『隋斎諧話』(文政2)に紹介する「芭蕉庵再建勧化簿」によって、彼の姓が鳥居であったことが分かる。『新山家』(貞享3)に「虚無斎 鳥文麟校」と記されているから、一時虚無斎と号していたのであろう。曰人の『蕉門諸生全伝』(文政頃成か)に「文麟 ヨホドヨキ家柄、堺の庭の主ナリト云フトモ、外ニアリトゾ」と記されており、また「文麟 泉州サカイ人」とも記されている。これが江戸時代における文麟についての唯一の文献であろう。」
と記されている。
また、「貞享二年五月、其角は病後の保養をかねて箱根木賀温泉に出掛けたが」とあるが、この時「彼は枳風と同行して江戸を出立し、木賀温泉でまず文麟の旅宿を訪ねているから、文麟が湯治のためにここに滞在していたことが分かる。多分其角は文麟に呼び寄せられたのであろう。」とも記している。
文麟は其角撰『続虚栗』に、
うばそくが隣をきかん四方拝 文麟
日ざかりやおとなしく見ゆ山桜 同
商人も見るものとてや舟の月 同
歌をよむ身のたうとさよ年のくれ 同
他多数入集している。
六句目。
かけありく芝生の露の浅緑
新シ_舞-台月にまはばや 仙化
芝生といえば芝居。昔の芝居の客席は文字通り芝生だった。月が照らす夜の舞台に浮かれて駆け回り舞い出す風狂者といったところか。
仙化は蕉門で、桃隣撰『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。
月一ッ影は八百八嶋哉 仙化
山寺や人這かゝる蔦かつら 同
の句も「舞都遲登理」にある。
七句目。
新シ_舞-台月にまはばや
中の秋画工一つれかへるなり 魚児
中の秋(仲秋)は放り込の季語で、画工の集団が能舞台の背景の松の木の絵を描いて帰ってゆく。やがて月夜に能の興行が行われるのであろう。
昔の画工は一種のプロダクション方式で、絵師とその弟子たちとの共同作業で描く。
魚児も其角門で、其角撰『続虚栗』に、
抱付て梢をのぞくさくら哉 魚児
つかまれてまた放さるるほたる哉 同
我顔の黒くなるまで月はみん 同
灯の影に顔すすびたる火燵哉 同
などの句がある。
八句目。
中の秋画工一つれかへるなり
鱸てうじておくる漢舟 観水
「てうじて」は「釣じて」であろう。漢文書き下し文風の言い回しだ。前句の画工から瀟湘八景図などに描かれる中国の漁船をイメージしたのだろう。
中国の画工の一行が漁船に乗って移動する姿を想像したか。
鱸(スズキ)と言うと、
荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣る
白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを
柿本人麻呂(万葉集)
の歌もある。
観水は前に述べたように、其角門の新人。其角撰『続虚栗』に、
詠唯一心
花に来て人のなきこそ夕なれ 観水
旅寐
木槿垣花見ながらに寐入けり 同
などの句がある。
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