「俳諧問答」の続き。
「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、
大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり
と云事をすへたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158)
「鍋ぶた一ッ」はいかにも質素な感じがして、先の、
さつぱりと鱈一本に年暮て 嵐蘭
の句にも通じるものがありそうだ。さすがに鍋本体はなくて木の蓋だけということではないだろう。鍋と蓋のセット一つでということだと思う。幾皿も膳に並べるのではなく、鍋をつつくだけで何日も過ごす生活は、いかにも隠遁者にふさわしい。鍋は火さえ入れておけばいつまででも食えるし、具材を追加してゆくこともでき、汁はだんだん濃くなって味を深めてゆく。
それに対して許六の付けた上五は、「大儀して」だった。「大儀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 重大な儀式。国家の儀式で、官人すべてが参列するもの。元日朝拝・即位礼および外国使節接見など。⇔小儀。
※延喜式(927)四五「大儀 謂三元日即位及受二蕃国使一」
※太平記(14C後)二七「当年三月七日に行ふべしと沙汰有しか共、大儀事行はれず」
② 表立った儀礼的な催し事。大がかりな法要や演能。
※花鏡(1424)序破急之事「序破急の心得、大義の申楽より初めて、酒盛、又はかりそめの音曲の座敷までも、次第次第を心得べし」
③ (形動) 重大な事柄。大きな政治的事件や騒乱。大事なこと。また、そのさま。
※太平記(14C後)九「御上洛候て後、大儀の御計略を回(めぐ)らさるべし」
④ (形動) 経費のかかる事柄。経費を多くかけること。ふんぱつすること。また、そのさま。
※虎明本狂言・三本柱(室町末‐近世初)「大儀な御ふしんも大かたすむ」
⑤ (形動) やっかいなこと。困惑すること。めんどくさいこと。また、体調が悪くてつらいこと。また、そのさま。
※吾妻鏡‐仁治二年(1241)一一月三〇日「武衛斟酌、頗似二大儀一」
※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)一五「今朝は化粧をするのも太義(タイギ)だ」
⑥ (形動) 他人の骨折りをねぎらい慰労することば。ごくろうさん。御苦労。
※大観本謡曲・葵上(1435頃)「唯今の御出で御大儀にて候」
とあり、なかなか多義だ。おそらく④⑤あたりの意味で、いろいろあって鍋蓋一つで冬籠りすることとなった、と原因を付けたのだろう。このあたりはお金持ちの許六さんだから清貧ということが思い浮かばず、「大変なことがあったのだろうな、大儀だったな」という気持ちで乗せてしまったか。
「又ある時、朱廸が句に、『足軽町の桃の花』と云句ニ五字を頼む。此桃曾て珍敷事なし。人々おもひ寄る所なれバ、たやすき五もじニてハ、新ミなし。発句ニ成がたき故、しバらく案じて、
実をねらふ足軽町の桃の花
と五文字付て、則韻ふたぎに入たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158~159)
朱廸(しゅてき)は許六門で、『風俗文選』には「酒徳ノ頌」が収められている。
「足軽町(あしがるまち)」はコトバンクの「世界大百科事典内の足軽町の言及」に、
「領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。」
とある。彦根では城下町を取り囲むように足軽組屋敷が建てられ、足軽長屋ではなく庭付き一戸建てだったという。今では旧彦根藩足軽組屋敷は観光名所にもなっている。
「足軽町の桃の花」は庭付き一戸建てならそう珍しいものではなかったのだろうけど、それは彦根だけの話で、余所の人からすると珍しかったかもしれない。
「実をねらふ」というのは子供の桃泥棒のことだろうか。60年代くらいの漫画には必ず柿泥棒が出てきたが、高度成長とともに子供が庭木の果実を狙うようなことはなくなっていった。
「又奚魚と云者来て、『田の草におハれおハれて』といふ事出たり。下の五字なし、頼むと云。予とりあへず、
田の草におハれおハれてふじ詣
ト云事を付たり。
又汶村が句に、『株干すわらの日のよハり』と云句、五もじとのぞむ。是もとりあへず、
蝉の音や株干ス藁の日のよハり
と付てやりぬ。
愚案ずるに、奚魚・汶村が句ニハ、おのづから句中に少血脈の筋あり。李由・朱廸が句ニハ、血脈の筋なき故に、容易におかれずして、発句ニ成がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.159~160)
奚魚(けいぎょ)は『俳諧問答』の横澤三郎注に、「『篇突』等にその句が見えてゐる」とある。許六門と思われる。「篇突(へんつき)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「俳諧論書。李由・許六(きよりく)共編著。1698年(元禄11)刊。序によれば,当時の俳諧宗匠の暗愚を憂えて成した書という。問題のある季語を取りあげ,例句を掲げて見解を述べ,また,〈賀〉〈挨拶〉などの格式,〈発句評錬の弁〉のような作法などを28項目にまとめ,追加に編著者の俳文を1編ずつ載せる。書名は,漢字の旁(つくり)に偏をつぎ競う中古の文字遊戯による。去来は《旅寝論》を書いて本書を批判したが,未刊に終わった。」
とある。
「田の草に」は田んぼの脇に茂る草のことで、田の草の茂る道をということだろう。「おハれおハれて」はそのまま読むと何かに追いかけられるか追い立てられるかで、この情景が一体何なのか落ちをつけろということなのだろう。
田んぼの道を追い立てられたり追っかけられたり、許六の答えは「富士詣で」だった。江戸時代には富士講が盛んにおこなわれ、富士山に登ったり、その周辺の富士五湖や白糸の滝や忍野八海や洞穴などを廻ったともいう。
富士登山は水無月のものだし、「575筆まか勢」というサイトには、
数珠玉や里の下草富士詣 才麿
の句があった。言水編『江戸弁慶』の句らしい。この句を見ても、富士詣は夏草の中を行くイメージがあったのだろう。
汶村(ぶんそん)も彦根藩士で許六門。
句の方は「株干すわら」がよくわからない。稲の藁を干すのは収穫後の晩秋だし、蕪は冬のものだし、「日の弱り」に「蝉の声」を付けるのだから、晩夏なのは確かだろう。
李由・朱廸の句に血脈がなく、奚魚・汶村の句には血脈があるというが、李由・朱廸の句は姿がある程度でき上っていて、それに付け加えるものがないからで、奚魚・汶村の句は姿ができてないから五文字追加してようやく意味を成すためではないかと思う。
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