旧暦九月二十日。快晴。晩秋長月の俳諧はまだまだいけそうだ。
次に取り上げるのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説のある「青くても」の巻で、『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注も参考にできる。
興行は九月中旬から下旬とされていて日付ははっきりしない。深川芭蕉庵(第三次)での芭蕉、洒堂、嵐蘭、岱水の四吟歌仙興行で、洒堂編の『俳諧深川集』(元禄六年刊)に収録されている。このすぐ後には許六を迎えての「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行も行わる。
さて、その発句を見てみよう。
深川夜遊
青くても有べきものを唐辛子 芭蕉
唐辛子は戦国時代に宣教師によって日本にもたらされたもので、日本でも栽培されるようになったが、日本では唐辛子を常食するような激辛文化は起こらなかった。薬として用いられるほかは、他の辛くないものとブレンドして薬味(今で言う七味唐辛子)としたり、味噌に混ぜて南蛮味噌にしたり、せいぜいピリ辛程度の刺激を楽しむだけだった。
許六の『俳諧問答』を読んでた時に、
「亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の巻に、
青き中よりちぎる南蛮 乙州
松の葉のちらちら落る月の影 朴吹」
とあって、許六は南蛮だけでは唐辛子なのか黍なのかわからない、と言っていた。南蛮黍はトウモロコシのことであろう。ただ、当時南蛮だけで唐辛子を意味することもあった。南蛮味噌を作る時には青唐辛子が用いられていた。『連歌俳諧集』の注によると、青唐辛子を酒の肴にすることもあったようだ。
青唐辛子は芭蕉の時代はよくわからないが、江戸後期には夏の季語となっている。
句の意味は、折から唐辛子の赤く色づく頃で、それを芭蕉は「青くても有べきものを」と赤くならなくてもいいのにと言わんとしているみたいだ。
猿蓑の「市中や」の巻に既に、
戸障子もむしろがこひの売屋敷
てんじゃうまもりいつか色づく 去来
の句がある。空き家になった売り屋敷に唐辛子が赤く色づいているのが侘しげに見えたのだろう。
寓意のない本来の意味では、唐辛子が赤くなるのは侘し気で、青いままでも良かったのにということではないかと思う。寓意としては互いに年は取りたくないね、ということか。
脇。
青くても有べきものを唐辛子
提ておもたき秋の新ㇻ鍬 洒堂
ゲストが脇を詠むのは、洒堂、嵐蘭、岱水を同格と見て、この日の洒堂が特別なゲストではなかったということだろう。
秋になって鍬を新調したけど、それが重く感じるというところに老いの悲しさが込められている。年は取りたくないという発句の寓意を汲んでのことだろう。
第三。
提ておもたき秋の新ㇻ鍬
暮の月槻のこつぱかたよせて 嵐蘭
こっぱ(木っ端)は製材するときに生じる小さな木の切れ端を言う。
欅は硬くて木目も美しい高級木材で、神社仏閣にもよく用いられるという。庭先の欅の木を切って売って、その金で鍬を新調したのだろう。昼に切った欅の木っ端を夕暮れに庭の隅に掃き寄せる。
四句目。
暮の月槻のこつぱかたよせて
坊主がしらの先にたたるる 岱水
坊主がしらは坊主衆の頭のことか。ウィキペディアには、
「坊主衆(ぼうずしゅう)は、江戸幕府の職名のひとつ。江戸城内で法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人をいう。「表坊主」、「奥坊主」と「数寄屋坊主」などがある。武士の1種であり、代々世襲されていた。初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子息で、年少の頃より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。表御殿は女人禁制のため、女中の代わりとして雑用を取り仕切る。広大な場内を整理・管理する必要性から生まれた役職である。」
とある。
江戸城内で欅の剪定でもしたのだろう。木っ端をきれいにに片づけたところを坊主頭に率いられて、将軍や老中、若年寄などが通行する。
五句目。
坊主がしらの先にたたるる
松山の腰は躑躅の咲わたり 洒堂
広い江戸城内には築山もあって、そこには躑躅が咲いていてもおかしくない。ここの連衆が実際に江戸城に入って見たわけではあるまい。想像だろう。
六句目。
松山の腰は躑躅の咲わたり
焙炉の炭をくだす川舟 芭蕉
「焙炉(ほいろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉(も)んだ。《季 春》「家毎に―の匂ふ狭山かな/虚子」
とある。茶の産地の景色に転じる。
『猿蓑』に、
山吹や宇治の焙炉の匂ふ時 芭蕉
の句がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿