感染者は増え続けている。死者も一日十五六人くらいまで増えて、千九百人を越え、このペースだと今月中に二千人を突破する。以前、年末までに二千人なら勝利と言って良いとか書いたが、冬のコロナを甘く見ていた。
政治家も基本的に憲法上私権の制限は出来ないことと、制限する場合は保証がセットだという論理に縛られて、どうにも身動きができないようだ。
小池知事の「5つの小」もガースーの「静かな会食」も、会食を禁ずることができないから細かい注文を付けて、「そこまでして食いてーかっ!」てのが本音なんだろうな。go toも業界との約束やら、献金を受けているやらしがらみがあって引っ込みがつかないもんだから、業界向けに「続ける、続けるように努力している」をアピールして、本音は「行くなーっ、空気読めーっ」なんだろうな。
どこかで十分な保証なしでも私権が制限できるように与野党で協議していかないと、この冬は取り返しのつかないことになる。オリンピックは幾多の屍を踏み越えての開催になる。
いずれにせよウイズ・コロナは結局無理だったんだとおもう。コロナは共に生きて行けるほど優しいウイルスではない。ワクチンの効果が不十分だったなら、いずれは全世界で力を合わせて一斉ロックダウンをして撲滅するしかなくなる。そうでなければ、毎年冬になると同じことを繰り返すことになる。
それでは「旅人と」の巻の続き。挙句まで。
二裏。
三十七句目。
幟かざして氏の天王
御牧野の笛吹習ふ童声 全峰
牧童であろう。北枝の兄ではなく、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1] 牛などの世話をする子ども。牧場で家畜の世話をする者。
※菅家文草(900頃)三・舟行五事「荷レ鍤慙二農父一、駈レ羊愧二牧童一」 〔杜牧‐清明詩〕
の方の牧童で、ちなみに「[2] ⇒たちばなぼくどう(立花牧童)」となっている。その立花牧童の支考との共編で『草刈笛』という集があるが、それくらい牧童と草笛は付き物といっていいだろう。
愛知県の津島神社の「津島神社のしるべ」というホームページには、津島祭の由来として、
「天王 尾張国、姥か懐(津島市 姥か森)という所に来り給い、其後、居を津島にしたもう。その頃、今の天王嶋(津島神社の所在地、二百年以前は独立の島で、嶋・天王嶋・向島などと呼ばれた)は草野であったが黒宮修理という市江嶋在居の武士の下人が、草刈船に乗って天王嶋に渡り、草刈りをしていたが塩満ち来り、皆々船に乗ろうとした時、下人の一人が、「吾は牛頭天王なり。今疫癘盛んにして万民悩む事少なからず、彼の真要を学び、船の上に種々の荘り物をし、神意をすすめし祭事をなすべし。疫癘静まるべし」と云ったので、草刈船の帆柱に衣類をかけ鎌をならし、舷をたゝき、口笛をふき、神祭を勧めたので、即時に疫癘鎮まり、万民安堵の思いをした。」
「天王(牛頭天王)西洋(にしのうみ)より光臨され、市腋島の草のに御船がついた折、草刈の牧童が集まっていて、簀を積重ね、枴に手巾ようの物をかけ、笛を吹き、鎌をうち鳴らし、余念なく遊び戯れている姿を愛で給い、児舞・笛(津島笛)の譜を製し、教えられた。」
とある。牧童の笛は牛頭天王とも縁がある。
三十八句目。
御牧野の笛吹習ふ童声
僧くるはしく腰にさす杖 枳風
「くるはす」は「くるほす」か。僧が持つ杖というと錫杖のことだろう。頭部の遊環(ゆかん)が音を立てる所から、旅の際のクマ除けにもなるし、祭文を詠む際の楽器にもなる。また、武器としても用いられたという。
ただ、錫杖を刀のように腰に差すというのはあまり聞かないことなので、狂ってるということなのだろう。牧童の笛に浮かれたか、稚児趣味か。
三十九句目。
僧くるはしく腰にさす杖
見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て 其角
趙子昂はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「中国、元代の儒者、書画家。名は孟頫(もうふ)。号は松雪道人。浙江呉興の人。王羲之の書の正統を守り、画は山水画を得意とし、院画風を排して唐・北宋に復帰することを主張実践した。書に「蘭亭帖十三跋」、著に「松雪斎文集」など。(一二五四‐一三二二)」
とある。
書に関してウィキペディアには、
「王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提供した。書は王羲之を越え、中国史上でも第一人者ともされている。」
とある。
「哢て」は「あざけりて」と読む。まあ、腰に杖を差すような狂った坊主だから、王羲之の正統を守る趙子昂の書を嘲ることもありそうだ。
四十句目。
見ぐるしと文字の子昻ヲ哢て
堺の錦蜀をあらへる 嵐雪
堺緞通(だんつう)は江戸後期なので、この時代にはまだない。よって堺の錦はよくわからない。
ここでは堺産の錦ではなく、堺の商人の持っている錦と読んだ方がいいのかもしれない。
蜀の錦は蜀江の錦で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「① 上代錦の一つ。緯(よこいと)に色糸を用いて文様を表わした錦で、赤地に連珠文をめぐらした円文の中に花文・獣文・鳥文などを織り出したもの。奈良時代、中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。
※法性寺関白御集(1145か)浮水落花多「巴峡紅粧流不レ尽。蜀江錦彩濯彌新」
② 中国明代を中心にして織られた錦。日本には多く室町時代に渡来。八角形の四方に正方形を連ね、中に花文、龍文などを配した文様を織り出したもの。この文様を蜀江型といい、種々の変形がある。
※源平盛衰記(14C前)二八「蜀江(ショッカウ)の錦(ニシキ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物、色々に打くくみたる鎧著て」
③ 京都の西陣などで、蜀江型を模して織り出した錦。
※浮世草子・新可笑記(1688)一「蜀江(ショクコウ)のにしきの掛幕ひかりうつりて銀燭ほしのはやしのごとく」
[補注]平安朝の漢詩文では花や紅葉を「錦」にたとえる際に、この蜀江(錦江)の錦でもってすることが、しばしば行なわれた。」
とある。時代的にこの場合は③か。
「蜀江の錦は洗うに従い色を増す」という言葉はいつ頃どこからきた言葉かはわからないが、蜀江の錦は蜀江の水で洗って作るという。
前句を趙子昂の書を堅苦しいといって笑うような、不易より流行を重視する人としたのだろう。京西陣の蜀江錦のきらびやかなものを好む。
四十一句目。
堺の錦蜀をあらへる
隠家や寄虫の友に交リなん 観水
「寄虫」は寄居虫とも書き、「がうな(ごうな)」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「かみな」の変化したもの) 動物「やどかり(宿借)」の古名。《季・春》
※枕(10C終)三一四「侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ」
[補注]寄居虫は古くから食膳に供されたようで、「延喜式‐三九」にも「年料〈略〉蠏蜷」とある。また「大和本草‐一四」には「海人多くひろひて一所に集め、泥水をにごらせば殻を出づ。是を取集めてしほからにす」と記されている。」
とある。
例文にある『枕草子』は「僧都の君の御乳母のままと」を冒頭とする段で、本によっては二九三段になっているものや二九四段になっているものもある。
僧都の御乳母が御匣殿(みぐしでん:中宮の妹)にいたとき、下男が来てひどい目にあったというので話を聞けば、火事で住んでたところが焼けたので、しかたなくヤドカリみたいによその人の家で暮らしているという。秣(まぐさ)から出火して夜殿が全焼し、焼け死にそうになり着の身着のまま何も持ち出せなかったという話をすると、御匣殿は、
みまくさをもやすばかりの春のひに
よどのさへなど殘らざるらん
という歌を詠んで、「燃やす」を「萌やす」に掛けて「夜殿」を「淀野」に掛けた洒落た歌に女房達は大笑いした。世間知らずの御貴族さんには家を焼かれたものの苦しみなどどこ吹く風、というわけだ。
この話が本説だとすればこの句は、蜀江錦を持っているような堺の大商人には、焼け出されて隠れ家でヤドカリ暮らしをしている友のことなどわかるまい、ということになる。
四十二句目。
隠家や寄虫の友に交リなん
筏に出て海苔すくふ比 芭蕉
子昻やら蜀江錦やら『枕草子』のマイナーな本説やら、いかにも其角流の好みそうな流れから、芭蕉は何とか蕉風に戻したいところだ。
ここでは寄虫を本来の動物のヤドカリとして水辺で展開する。海苔の収穫期は冬の終わりから夏の初めまでで、筏で海苔を掬う比というのは春になる。海苔を掬う海士ならヤドカリとも友達だろう。春に転じることで花呼び出しになる。
四十三句目。
筏に出て海苔すくふ比
谷深き日うらは花の木目のみ 挙白
前句の海の情景に谷深き山の日の当たらぬ影とたがえて付ける。日陰では桜の開花も遅く、まだ木の芽のみ。これから咲くであろう花を余情とする。
挙句。
谷深き日うらは花の木目のみ
声しだれたる春の山鳥 由之
最後は脇を務めた、スポンサーの磐城平藩の関係者である由之が締めくくる。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
柿本人麻呂(拾遺集)
の「しだり尾」を枝垂桜に掛けて、山鳥の尾ではなく声がしだれている、とする。「声しだれたる」は「しゃくり」と反対に高い音から低く下げるということであろう。
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