2020年11月2日月曜日

  大阪はまたしても阪神タイガースの試合のように最後に逆転負け。
 でもさすがに日本人は潔い。泣くな吉村、大阪の花だ。
 それにひきかえ、アメリカはどうなることか。ネバーギブアップの国だからな。ブッシュとゴアの時に本当にそう思った。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   風にふかれて帰る市人
 なに事も長安は是名利の地    芭蕉

 これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。
 ここからは上句芭蕉、下句越人になる。
 八句目。

   なに事も長安は是名利の地
 医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

 今もそうだが医者というのは都市に集中するものだ。昔は資格もなく勝手に開業できたから藪医者も多く、いくら医者が沢山いても、まっとうな医者を探すのに苦労したのかもしれない。
 九句目。

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ
 いそがしと師走の空に立出て   芭蕉

 「立出て」というと、

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
     いづこも同じ秋の夕暮れ
              良暹法師(後拾遺集)

の歌が思い浮かぶ。いずこも同じ藪医者ばかり。
 十句目。

   いそがしと師走の空に立出て
 ひとり世話やく寺の跡とり    越人

 寺の跡を継いだ人が、まだ何か不慣れで頼りないのだろう。まったく世話が焼ける。
 十一句目。

   ひとり世話やく寺の跡とり
 此里に古き玄番の名をつたへ   芭蕉

 「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。
  ※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」

とある。
 その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」

とある。
 古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。
 十二句目。

   此里に古き玄番の名をつたへ
 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人

 足駄は高下駄のことで、主に僧侶が履く。雨で土がぬかった時に歩きやすい。
 玄番の末裔は今でも僧侶を大事にし、雨に朝に足駄を履かせて外出させたりはしない。
 十三句目。

   足駄はかせぬ雨のあけぼの
 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

 足駄を履いて去ってゆこうとする男も、女のあまりにか細く艶やかな姿にためらう。
 十四句目。

   きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
 かぜひきたまふ声のうつくし   越人

 「目病み女に風邪引き男」という諺があるが、どちらも色っぽく見えるということ。この諺がいつごろからなのかはわからないが、ひょっとしたら越人の句に起源があるのかもしれない。「蝉時雨」も越人から始まった可能性があり、新しい言葉を作る才能があったのかもしれない。
 目病み女というと、今でも眼帯フェチというのがあって、綾波レイの眼帯に萌える人たちがいるが。
 十五句目。

   かぜひきたまふ声のうつくし
 手もつかず昼の御膳もすべりきぬ 芭蕉

 「すべる」は古語では退出するの意味がある。風邪で食欲がないのは普通だが、前句の「うつくし」で高貴な人の御膳とするところに技がある。
 十六句目。

   手もつかず昼の御膳もすべりきぬ
 物いそくさき舟路なりけり    越人

 前句を船酔いとする。
 十七句目。

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

 比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。
 琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師

の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。
 十八句目。

   月と花比良の高ねを北にして
 雲雀さえづるころの肌ぬぎ    越人

 「肌脱ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「和服の袖(そで)から腕を抜いて上半身の肌をあらわにすること。また、その姿。「―になる」《季 夏》「這(は)ひよれる子に―の乳房あり/虚子」

とある。
 片方だけだと片肌脱ぎで肩脱ぎともいう。この場合は弓を射たりするときで、「片肌脱ぐ」は「加勢する」という意味になる。両方だともろ肌脱ぎで「全力を尽くす」という意味になる。
 この句の場合はそうした寓意ではなく、桜が咲いて雲雀が囀る頃には暖かくなり、働く人は肌脱ぎになるという、気候を添えて流した句と見るべきだろう。

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