「俳諧問答」の続き。
「一、又、未来の句を案ずるといふハ、五年も七年も先を案ずる事也。未練の者ハ、斗方もなきやうニおもひ侍れ共、眼前ニしれたる事也。
たとへバ、花と云題にて発句所望せし時、案じて一句出る。又一句のぞむ時、最前案じたる所ハもはやのべがたけれバ、されよりおくを尋て、一句とり出して句とす。又所望する時、ひたものおくを尋る。是、未来の句、眼前にしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156~157)
未来の俳諧について考えておく必要というのは、長く俳諧に携わってゆこうとするなら、考えないわけにはいかないだろう。まあ、これは今の芸人にも当てはまるし、ミュージシャンだって五年十年後の音楽がどうなるかは考えざるを得ないだろう。
世間は常に新しいものを求めている。同じネタはいつまでも使えない。ネタだけでなく同じ手法というのもやがては飽きられる。常に先のことを考えていかなくてはいけないというのは、例えば商品開発などでもそうだろう。トレンドで飯を食っている人間は、常に未来を見ていなくてはならない。
ただ、それが常にできる人はごくわずかだ。どの業界でも一発屋というのはたくさんいるし、その一発さえ出せなかった人がさらに無数にいる。
許六さんも次の俳諧には当然関心があったし、去来だって其角だって関心ないわけではなかったはずだ。ただ、惟然のような自分が予期しなかったようなものが出てしまうと、それに乗るというよりはディスる側に回ってしまうものだ。
「一、又云、俳諧ハ物ずきともいふべし。上手の句ハ物ずきよく、下手の句ハ物ずきあしし。てには・おさへ字等ハ、上手の句も下手の句も、一字もゆるされざれば、物ずきのよきを上手といはむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)
「物ずき」というのは、今では変わったものをわざわざ好む人のことを言うが、数奇(数寄)はもともとは和歌を好むことだった。ウィキペディアの「数寄者」のところには、
「古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。」
とある。和歌や連歌が数寄なら、当然ながら俳諧も数寄の道ということになる。
一般的には「流行するものを好む」ことが「数寄」だと言っていいのではないかと思う。今の言葉だとファッションが一番近いかもしれない。
俳諧は一つのファッションであり、上手の句はファッショナブルで下手の句はファッショナブルではない。文法的な面で上手い下手はあっても、それは上手かろうが下手だろうがどのみち守らなければならない規則なのだから、ファッションセンスのある作者が上手といっていい。
音楽でもプロで何年もやっていれば歌や楽器など嫌でも上手くなる。でも作詞や作曲のセンスはいくら練習してもどうなるものでもない。若いへたくそなバンドでもヒット曲を連発することはあるし、いくら楽器がうまくてもスタジオミュージシャンにしかなれない人もいる。
文学の方だと、どう頑張っても面白い文章は書けないが、文法や漢字知識や仮名遣いなどが完璧なら、校正に回った方がいい。
それと同じで、俳諧の上手下手も結局はセンスの問題で、文法に詳しいからって面白い句が作れるわけではない。
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