いつまで何事もないふりをしているのだろう。
世界を見れば既に140万もの人が死んでいるんだし、怖いものは怖いんだよ。そこから目を背けたってどうなるものではない。「正しく恐れる」というのは現実を直視することなんだ、違うかい?
どんなに怖いものでも、しっかりと前を見据えれば必ず道は開けると思う。眼をそらして、逃げていたら、あるのはどん詰まりだ。
緊急事態宣言が出てた時には自殺者が減ったのに、解除されてから自殺者が増え続けている。ウイズ・コロナには絶望しかないからだ。
それでは「俳諧問答」の続き。
「一、又云、俳諧ハなきとおもへバなき物也。あれ共、案じあてぬとおもひて案じ侍れバ、成程ある物也。
たとへバ、歳旦ハ事せまくてなき物とおもふ故に、上句希也。歳暮ハひろき物なれバあるべしとおもふ故に、おりふしよき句出るがごとし。是明なる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)
これは「俳諧は出来ないと思ったら出来ないもの也」ということだろう。「あれ共」は前の文章を受けて、「しかれども」ということで、考えれば必ずできると思って考えれば、成程出来るもの也、と続く。
歳旦はお目出度いものでなくてはならないし、正月特有のものは限られているなど、いろいろ制約が多くて難しいと思うから、歳旦で名句はなかなか生まれない。この頃の俳諧師は毎年歳旦帳を出していたけど、そのほとんどは左義長で燃やされて消えてしまったのだろう。
歳暮の場合、年末は人情色々あるし、題材も豊富だから有名な句も多い。
年暮ぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉
人に家をかはせて我は年忘 同
詩あきんど年を貪ル酒債かな 其角
いねいねと人にいはれつ年の暮 路通
大晦日定めなき世の定めかな 西鶴
「一、五文字のすハらざる句、人持来て五文字を頼むと云事。
李由が句ニ『比良より北ハ雪げしき』といふ句、久しく五文字なし。予翁に尋侍る時、早速『鱈舟や』と云五文字ハすへ給へり。此句門人たる人しらぬハなし。
此時師の云、凡兆が句ニ、『雪つむ上の夜の雨』と云に、五文字頼む。情を費して案じ出して、『下京や』と云五字をすへたりと語り給ふ。
同じ五文字をすへ給ふに、容易に出ると出ざるとハ、いかなる子細成とおもふに、愚退て発明するに、『鱈舟』と云五文字ハ、取合もの也。『下京』といふ五字ニハ、例の翁の血脈を入られたり。二ッの五文字同じ事とおもふ人ハ、五文字置事ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157~158)
比良山は琵琶湖の西岸にある山で、貞享五年秋の芭蕉越人両吟「雁がねも」の巻の十七句目にも、
物いそくさき舟路なりけり
月と花比良の高ねを北にして 芭蕉
の句があった。この場合は前句を、琵琶湖を渡るのに急いでいて瀬田の唐橋まで行かず、近道になる矢橋(やばせ)の渡しを船で渡る人のこととして、そこから北に見える比良山を付けている。
この場合、比良の北は雪景色で山が真っ白に見えるという下七五ができたものの、上句が決まらないというものだった。
比良山といえば多くの人が連想するのが琵琶湖だったと思われる。東海道でも中山道でも、江戸と京都を行きかう人は、琵琶湖の向こうにある比良山が嫌でも目に入ってきたのではないかと思う。そうなると「比良より北ハ雪げしき」という下句には琵琶湖の景物を付けないという手はない。ただ「鳰の海比良より北は雪げしき」ではいかにも平凡で、許六なら「是にてもなし」と言うだろう。取り合わせにはなるが、取り囃してはいない。
芭蕉が「早速」というから、本当に即答したのだろう。
鱈船や比良より北は雪げしき 李由
ちなみにこの句は李由・許六・汶邨・徐寅の「四吟」の発句として李由・許六編『韻塞』(元禄九年刊)に収録されている。脇は、
鱈船や比良より北は雪げしき
蘆浦納豆寐せ初る比 許六
になっている。
鱈船は鱈漁をする船ではなく、この場合は蝦夷や東北で獲れた鱈を極寒の中で乾燥させた「棒鱈」を京阪に運ぶ船で、北前船で若狭湾に運び、陸路で琵琶湖の北岸に運び、そこから船で琵琶湖を縦断する、この船を鱈船と呼んでいた。
棒鱈は許六の同席した元禄五年冬の「けふばかり」の巻の二十一句目に、
當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
さつぱりと鱈一本に年暮て 嵐蘭
とあるように、年末に何日もかけて戻し、正月に食うものだった。韓国にもファンテというオリンピックのあった平昌の名物があり、それに似ている。
鱈船を出すことで、比良より北の雪景色は単なる琵琶湖の景色というだけでなく、その遥か向こうの見えない所にある棒鱈の産地である北の極寒の地にも思いを馳せることになる。
許六はそれに琵琶湖南部の蘆原で冬に向けて納豆を仕込む頃と応じる。『炭俵』の「早苗舟」の巻三十句目、
切蜣の喰倒したる植たばこ
くばり納豆を仕込広庭 孤屋
の所でも触れたが、「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。
※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」
とある。
この「棒鱈や」の上五を付けた時、芭蕉は凡兆の「雪つむ上の夜の雨」の下七五に「下京や」の上五を付けた時の話をしたという。この話は『去来抄』「先師評」にもある。
「下京や雪つむ上のよるの雨 凡兆
此句 初冠なし。先師をはじめいろいろと 置侍りて、 此冠に 極め給ふ。凡兆あトこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆 汝手柄に此冠を置べし。 若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからずト也。去来曰、 此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、 是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。 此事他門の人 聞侍らバ、腹いたくいくつも冠 置るべし。 其よしとおかるる物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.19)
「棒鱈や」はすんなり出てきたけど「下京や」は門人とあれこれ論じた果てにやっと定まったもので、この違いは何だったのかと許六は考える。
結論としては、「棒鱈や」は比良の雪との取合せ・取囃しで容易に思いつくものだったが、「下京や」には「例の翁の血脈を入られたり」と言う。
血脈は前にも論じたように二重の意味があった。一つはほぼ「風雅の誠」と同じもので、其角が「俳諧の神」と呼んでたものだ。しかし、一方では師から相続されたもの意味でも用いられる。
「下京や」が取り合わせで出てきたものではないのは確かだろう。ただ、雪が積もってはすぐに雨で融かされてしまうというのは「下京あるある」だったには違いない。強いて言えば「雪つむ上のよるの雨」が何らかの多くの人の共通認識(噂)になるような場面は何か、ということから逆算していったのだろう。
風雅の誠、俳諧の神は、基本的には多くの人の心の底にある共通のものに至りつくことであろう。共通のものに至ることで、その言葉は人と人とを繋ぎ、心を一つにすることができる。それは李退渓の四端九情説で言えば、九情を通じてその根底にある四端に行き着くことだ。
この「下京や」の句にそこまで深いものを読み取れるかどうかは微妙だが、強いて言えば目まぐるしく変わる世界を肯定的に捉えるという時点で、不易流行に通じるものを読み取ることは可能だ。
流れる水が濁らないように、雪が降ったかと思ったら雨ですぎに消えてゆく下京の気候に下京の町の繁栄を重ね合わせて、よく流行するゆえに栄えるという「理」を見出したなら、確かに芭蕉が自信をもって「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったのもうなずける。「雪つむ上のよるの雨」の下七五に芭蕉は最初からそれを読み取っていた可能性は十分ある。
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