2020年11月18日水曜日

  今日は季節外れの暑さで、車の窓を開けて走った。
 コロナの感染者が増え続けている。もはや夏の第二波を乗り切った時のレベルの自粛では防げないと思った方がいい。第一波の時の町が閑散とするようなレベルの自粛が必要だ。
 ただ、あの時自治体はかなり金を使ってしまったし、自粛と保証はセットだと言うなら大した自粛要請は出せないだろう。店を開けるのは自由だが、みんな行くなーーっ、空気読めーーっ、という状態が続くと思う。
 それでは「旅人と」の巻の続き。

 二表、
 二十三句目。

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

 「順の峯入り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。当山派の逆の峰入りは秋になる。春に北に向かう本山派は帰る雁、秋に南に向かう当山派は来る雁ということになる。
 二十四句目。

   順の峯しばしうき世の外に入
 萱のぬけめの雪を焼家      仙化

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「茅葺の屋根の損じた所。雪積る屋根のくずれから炊煙のもれるのを、『雪を焼家』と言った。」とある。
 「抜目(ぬけめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 抜け落ちた所。欠けた部分。もれた箇所。もれ。おち。
 ※夫木(1310頃)三〇「山かつのいほりはかやのぬけめよりわりなくもるる春の雨哉〈源仲正〉」

とある。この夫木の歌が本歌か。これだと抜目から漏れ落ちる雪が囲炉裏の火で溶けるのを「雪を焼く」と言ったのかもしれない。
 二十五句目。

   萱のぬけめの雪を焼家
 老の身の縄なふ程にほそりける  由之

 縄をなうと縄は太くなるが身は衰えて細くなる。雪を焼く囲炉裏端での作業であろう。
 二十六句目。

   老の身の縄なふ程にほそりける
 君流されし跡の関守       芭蕉

 ウィキペディアによると、承久の乱で「後鳥羽上首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。」
 世は乱れ、関屋も破れ、関守は内職をして暮らす。
 二十七句目。

   君流されし跡の関守
 明暮は干潟の松をかぞへつつ   挙白

 清見潟のある清見関のことか。古代東海道の関所で、興津の清見寺の近くにあった。当時は薩埵峠を越える道がなく、海沿いの細い道を通ったため、波が高いと越えられず、関所の関守とは別に波の関守がいたとも言われた。

 さらぬだにかわかぬ袖を清見がた
     しばしなかけそ浪の関もり
              源俊頼(散木奇歌集)

の歌もある。前句の「君流されし」はこの場合波にさらわれたのであろう。
 清見関の前の海はかつては干潟で対岸には三保の松原があった。今は清水港になっている。

 清見潟波路の霧は晴れにけり
     夕日に残る三保の浦松
              北条宗宣(玉葉集)

の歌がある。
 二十八句目。

   明暮は干潟の松をかぞへつつ
 命をおもへ船に這フ蟹      其角

 船の上の蟹は逃げる所がない。干潟で穴を掘って暮らしていれば良かったのに何だこんなところに来てしまったか。食べられちゃうぞ。命を大事思うならここには来ちゃだめだ。そういったところか。
 日本人は昔から蟹を食べてきたと思うのだが、蟹の和歌はあまり聞かない。『万葉集』に蟹を詠んだ乞食者の長歌はあるが、これも蟹そのものを詠んだというよりは、自らを蟹に喩えて食べられてしまうからと仕官の話を断る歌だ。
 二十九句目。

   命をおもへ船に這フ蟹
 起出て手水つかはん海のはた   嵐雪

 「海のはた」は「海の端」で海岸のことか。ただ、打越に干潟があり、水辺が三句続くし、干潟は体、船と蟹が用、と体用と来てまた体にに戻ってしまっている。
 海に近いところだと、朝に手水で手を清めようとするとき、手水場に蟹がいたりしたのだろう。
 前句の「船」を手水船、つまり手水のための水を溜める鉢のこととする。
 三十句目。

   起出て手水つかはん海のはた
 しらぬ御寺を頼む有明      観水

 手水場がある所というので御寺へと展開する。「起出て」は朝なので、有明の月がまだ残っている。四手付けといえよう。
 三十一句目。

   しらぬ御寺を頼む有明
 蕣や石ふむ坂の日にしほれ    金峰

 石ふむ坂は石畳の街道の坂道のことか。前句の有明の御寺の早朝の景に、蕣(あさがほ)は石ふむ坂の日にしほれるや、と今咲いている朝顔も街道の坂を上ってゆくうちに日も高くなり萎れてしまうのだろうか、と付く。
 三十二句目。

   蕣や石ふむ坂の日にしほれ
 小畑さびしき案山子作らん    枳風

 前句の「や」はここでは「しほれ」ではなく「作らん」に掛かる。「蕣は石ふむ坂の日にしほれ小畑さびしき案山子作らんや」の倒置となる。
 朝顔は萎れ、街道わきに小さな畑がポツンとあるのも寂しいので、案山子でも作ればにぎやかになるか。
 三十三句目。

   小畑さびしき案山子作らん
 草の戸の馬を酒債におさへられ  芭蕉

 粗末な藁葺きの家で飼っていた馬も酒の借金が払えなくて差し押さえられてしまい、馬のいなくなった畑は寂しいので案山子でも作って立てておく。
 三十四句目。

   草の戸の馬を酒債におさへられ
 つねみる星を妹におしゆる    挙白

 「つねみる星」、常に変わらずに見える星は北極星のことか。家は没落して草の戸になり馬もいなくなってしまったが、変わらないもののあることを教えようというのだろう。それは愛。
 三十五句目。

   つねみる星を妹におしゆる
 薫のしめり面白き夕涼み     仙化

 夕涼みで星を眺める光景に転じる。着物は薫物(たきもの)の香をしみこませて、打越のような侘し気な空気を断ち切る。
 三十六句目。

   薫のしめり面白き夕涼み
 幟かざして氏の天王       其角

 「天王」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「氏神の天王様の祭の情景」とある。
 天王祭(てんのうさい)はウィキペディアに、

 「天王祭(てんのうさい)は、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。」

とある。京都の祇園祭(祇園御霊会)も牛頭天王の祭りで天王祭になる。旧暦六月に行われていた。江戸では千住の素盞雄神社も元は天王様と呼ばれていて、ここでも天王祭が行われていた。明治になって素盞雄神社に改められたが、今でも天王祭は行われている。時期的にも夕涼みに着飾って訪れるのにちょうど良かったのだろう。

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