マクロンの言う表現の自由は、たとえて言えば面と向かっと馬鹿だの禿げだの言って言論の自由だというようなもの。他の国や民族の文化伝統を冒涜して表現の自由は無理がある。
まあ、言論の自由はあるにはある。というか、自由というのは誰もが自由にふるまえば当然ながら自由と自由が衝突しあって、いわゆる「万人の万人に対する闘争状態」に陥ってしまうものだ。
馬鹿と言うのも自由、馬鹿と言われて腹を立てるのも自由だ。ただそのまま放置すると当然ながら喧嘩になる。そこで社会契約を結び法律を定めて、ここまでの自由は認めるがこれ以上は駄目というのが近代人権思想の考え方だ。無制限の自由何てものはありえない。
ただ、国際社会となると、そもそも国際法に規定のないことについては規制がない。だから何を言ってもいいのかとなると、当然ながら自由と自由、権利と権利がぶつかり合って戦争になる。
御立派な人権思想が中国のウイグルやチベットの惨状を見ているしかできないのは、社会契約がすべての人に結ばれているわけでなく、いまだに国家内部にとどまっているからではないかと思う。
社会契約は契約者しか拘束できない。これが今の人権思想の限界だと思う。
西洋理性の欠陥は霊肉二元論により、肉体と精神、欲望と理性というふうに単純に二分することで、その間にある人間のメンタルな部分を完全に取りこぼしている所にある。肉欲は機械的で見境なく、それをコントロールするのが理性だというが、このどちらにも感情は存在しない。
同様に、「万人の万人に対する闘争状態」にも「社会契約の状態」にも感情が入り込む透間がない。だが、実際人間はそのどちらでもない状態で原始から今の今まで普通に生活している。
人は生まれた途端、それまで他の多くの人が生活している中に突然割り込んでゆくことになる。彼らが生まれたばかりのものを殺すのは文字通り赤子の手をひねるようなものだ。その中で生きてゆくのに最初から社会契約があるわけではない。まずは泣き叫んで生きるのに必要なものを要求する。親がそれを与えて喜びを感じることで最初の取引が成立する。
生きるというのは絶えず要求を繰り返し、周囲の人間と取引を繰り返しながら、自分の居場所を確保してゆく。人生は生存の取引の繰り返しだ。それはcontractではなくdealだ。
生存の取引は基本的に個と個の関係で一般化することはできない。それは例えば商人が価格交渉をするのに、取引先の足もとを見て価格を変えるようなもので、吹っ掛けたり値切ったりを繰り返しながら取引は成立してゆく。
また生存の取引は一回限りのものではなく、不断に更新されてゆく。その過程でステータスを上げる者もいれば隅に追いやられてゆく者もいる。こうして絶えず流動的に社会というのは成立してゆく。
もちろんそこには力関係もあり、理不尽な取引も数多くある。ただ、その取引の繰り返しによってある程度の均衡が生じることで、人は「万人の万人に対する闘争状態」を免れている。これが原始から今に至るまで繰り返されている人間社会の真の姿だ。そんな中で進化したのが人間の豊かな感情だった。
人権思想は本来、人間が原始から行っているその営みを法則化し、いわば暗黙に行われてきた慣行や原始的な法律を体系化する試みだったはずだ。だから現代の法律学では慣行は尊重されているはずだ。
人権思想はあまり杓子定規にふるまい慣行を軽視していくと、慣行が破壊され、そこに「万人の万人に対する闘争状態」の悪夢を引き起こす危険がある。言論の自由や表現の自由も適度なところで抑制し、世界のさまざまな民族文化伝統に敬意を払わないなら、それはやがて悲惨な戦争を引き起こすことになる。
基本は文化的多様性を尊重するということだ。まして国家権力の及ばない国際社会においてはなおさらだ。
さて再び俳諧を読んでいこうと思う。
貞享五年『更科紀行』の旅を経て江戸に戻った芭蕉は、九月中旬にともに旅をした越人を芭蕉庵(第二次)に招き両吟一巻を巻く。この両吟は翌年に出版される『阿羅野』に収録されることになる。
木曾の痩もまだなほらぬに後の月 芭蕉
の句を詠んで芭蕉庵で十三夜の月見の会を行った後のことだった。ひと月前の仲秋の名月の時には芭蕉と越人は姨捨山にいて、
俤や姨ひとりなく月の友 芭蕉
いざよひもまださらしなの郡哉 同
さらしなや三よさの月見雲もなし 越人
という句も詠んでいる。「三よさの月」とあるように、十五夜だけでなく十六夜(いざよい)、十七夜(立ち待ち月)も楽しんだ。
さてこの九月中旬の両吟の発句。
深川の夜
雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人
芭蕉庵に越人が招かれた形になるので、発句は越人になる。
この一巻は『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があり、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注もある。
深川芭蕉庵は小名木川が隅田川と合流する所にあり、夜ともなれば水鳥の声が結構うるさかったのかもしれない。雁はその名の通り「かり」と鳴くとも「がん」と鳴くとも言われている。犬のキャンと鳴く声にも似ている。
「からぶ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、
「①乾く。ひからびる。
②(声が)かすれる。しわがれ声を出す。
出典今昔物語集 二七・三四
「林の中にからびたる声の」
[訳] 林の中にかすれた声の。
③枯れて物さびる。枯淡の趣に見える。
出典無名抄 会歌姿分事
「秋・冬は細くからび」
[訳] 秋・冬は細く枯淡の趣に見え。」
とある。
隅田川がすぐ近くにあるから雁の声はかなりうるさくて、「枯れて物さびる。枯淡の趣に見える」には程遠い状態だったのではなかったかと思う。
この場合は①②の意味で、いつもは雑音にしか聞こえないうるさい雁の声も、こうして二人で静かに耳を傾けてみると、しわがれた声ではなく、結構澄んだ良い声なんだなとあらためて認識する。そういう意味ではなかったかと思う。
脇。
雁がねもしづかに聞ばからびずや
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。
普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。
第三。
酒しゐならふこの比の月
藤ばかま誰窮屈にめでつらん 芭蕉
両吟の習いとして、第三は脇と同じ人が詠む。四句目、五句目は発句を読んだ人が詠む。
藤袴は秋の七草の中では地味な方で、俳諧に詠まれることも少ないが、ここでは「袴」と掛けて正装=窮屈の連想で付ける。
酒を強いることについて、袴を履いて集まるあらたまった月見の会でもないし、窮屈にする必要もないので、と言い訳の句に転じる。
四句目。
藤ばかま誰窮屈にめでつらん
理をはなれたる秋の夕暮 越人
秋の夕暮れは、
心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮れ
西行法師(新古今集)
のように、別に古典の素養とか故事とか知らなくても誰でも言うに言われぬようなあわれな気分になる。「あわれ」は今の言葉だと「エモい」ということか。
「理をはなれる」というと、
おもしろや理窟はなしに花の雲 越人
という句も『阿羅野』に選ばれている。
五句目。
理をはなれたる秋の夕暮
瓢箪の大きさ五石ばかり也 越人
一石は十斗で約百八十リットル、ドラム缶が約二百リットルだから、五石はドラム缶五本分になる。
五石の瓢箪は『荘子』「逍遥遊編」に登場するもので、恵子が魏の王から瓢箪の種をもらったが五石もの大きさになって、酒を入れても持ち運べない、柄杓にするにも大きすぎると言ったのに対し、荘子はならば船にでもしたらどうだと言う。まあドラム缶五個分だったら小舟にしかならないが。
前句の秋の夕暮れのエモに老荘の無為自然の心を感じ、五石の瓢箪の登場となる。
なおこの『荘子』「逍遥遊編」には「越人斷髮文身」の文字もあり、古代の越の国の人の風俗が倭人に似ていたことが記されている。その倭人の国が今では銭湯や温泉で分身お断りとはこれいかに。入れ墨は邪馬台国の頃から日本の文化だったはずなのに。
秋は五句までなので、瓢箪を秋としても問題はない。ただ打越に藤袴があるので、瓢箪は器物、つまり植物を使った製品であれば非植物としなくてはならない。
六句目。
瓢箪の大きさ五石ばかり也
風にふかれて帰る市人 芭蕉
『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、
「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」
とある。
まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。
五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。
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