トルコの地震は他のニュースの陰に隠れちゃっているけど、死者がたくさん出て大変だ。イズミルというとヘラクレイトスのいたところだなあ。
それでは「雁がねも」の巻の続き。
二表。
十九句目。
雲雀さえづるころの肌ぬぎ
破れ戸の釘うち付る春の末 越人
肌脱いで何をするかと思ったら、破れた戸を釘で打ち付ける。ようやく雪の溶けた雪国の景で、雪の重みで壊れた戸を直しているのかもしれない。
二の懐紙に入る所で越人が二句続けて、ここから上句が越人、下句が芭蕉になる。
二十句目。
破れ戸の釘うち付る春の末
みせはさびしき麦のひきはり 芭蕉
麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。
ウィキペディアには、
「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」
とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。
昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。
二十一句目。
みせはさびしき麦のひきはり
家なくて服裟につつむ十寸鏡 越人
服裟(ふくさ)は袱紗(ふくさ)でウィキペディアには「贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用する方形の布である」とある。
十寸鏡(ますかがみ、まそかがみ)は真澄鏡とも書き、立派な鏡、澄んだ鏡という意味で、特に十寸という寸法には意味がないようだ。
「家なくて」は「女三界に家なし」と言われてたように、幼くは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うとされてきた。俳諧でも田氏捨女を別にすれば女性は苗字や姓で呼ばれることはなかった。夫婦同姓でも夫婦別性でもなく、女性は基本的に姓を持たなかったと言った方がいいのかもしれない。(田氏捨女は田氏の家に生まれ田氏に嫁ぎ、生涯田氏だったため例外的にそう呼ばれている。)
ひきわり麦を売る粗末な家に嫁いできたのだろう。鏡は大事に袱紗で包んで肌身離さず持ち歩いていたか。
二十二句目。
家なくて服裟につつむ十寸鏡
ものおもひゐる神子のものいひ 芭蕉
前句の十寸鏡を神社の御神体としたか。霊が憑りついて死者の言葉を伝えるイタコのような巫女が、神具として鏡を持ち歩いていたのだろう。
二十三句目。
ものおもひゐる神子のものいひ
人去ていまだ御坐の匂ひける 越人
これは『源氏物語』葵巻の物の怪憑依の場面か。
「御坐(おまし)」は貴人の居所で、そこで焚いていた護摩の芥子の香が人のいなくなった後でも匂い続けているのだが、同じ香が別の場所にいる別の人にもというところは省かれている。
葵の上を神子に変えるのは本説付けの常で、そのまんまではなく少し変えることになっている。
二十四句目。
人去ていまだ御坐の匂ひける
初瀬に籠る堂の片隅 芭蕉
同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。
本説付けの後の逃げ句としては模範とも言えよう。
二十五句目。
初瀬に籠る堂の片隅
ほととぎす鼠のあるる最中に 越人
初瀬のホトトギスというと、
郭公ききにとてしもこもらねど
初瀬の山はたよりありけり
西行法師(山家集)
の歌もあるが、鼠の走り回る中で聞くというところに俳諧がある。
二十六句目。
ほととぎす鼠のあるる最中に
垣穂のささげ露はこぼれて 芭蕉
ささげは大角豆という字を当てることも多い。かつては赤飯に用いられていたが、今は小豆が使わることが多い。初夏に種を蒔き、夏の終わりには収穫できる。初秋で露の降りる頃にはホトトギスも鳴き止む。
二十七句目。
垣穂のささげ露はこぼれて
あやにくに煩ふ妹が夕ながめ 越人
垣穂の向こうには恋に悩む少女がいる。垣間見たいものだ。
二十八句目。
あやにくに煩ふ妹が夕ながめ
あの雲はたがなみだつつむぞ 芭蕉
雲をいとしい人に見立てるのだが、他にも泣かせている人がいそうだ。
二十九句目。
あの雲はたがなみだつつむぞ
行月のうはの空にて消さうに 越人
『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『源氏物語』夕顔巻の、
山の端の心もしらでゆく月は
うはのそらにて影や絶えなむ
の歌を引用している。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注も同じ。
夕顔の歌は源氏の君に怪しげな空き家に連れてこられて不安な気持ちを西へ行く月に喩えて、このまま消えてしまうような気がしますというもので、その後の展開を暗示させるものだった。
ただ、この句では山の端へ消える(西、つまり浄土へ渡る)というのではなく、雲に隠れるだけだ。その雲は誰の涙が包むのかと、自分の悲しみではなく一般的な恋の悲しみに作り直している。
俳言もなく、連歌のような付け句といっていいだろう。
三十句目。
行月のうはの空にて消さうに
砧も遠く鞍にいねぶり 芭蕉
月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。
戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
の夫の側からの句であろう。
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