2020年11月27日金曜日

  今日は雨になるという予報だったがほとんど降らなかった。
 そういえば武漢で最初にコロナが広まってからもう一年になるのかな。
 コロナも一歳になるのか。まだ一歳。あと何年猛威を振るうのか。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、古事・古実をむすぶ事。猿ミのニ、諏訪の祭りの穂やつくる事にて翁の物語あり。
 予が集の時、李由が云、御玄猪(ゲンヂヨ)の御いわゐに、公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。此事句にせんといひし。
 予が云、是よき古実也。遠境の人々ニしらしめたるがよし。しかれ共、句作り悪敷バ古手に落む。専ラ銀杏の句にして入られべし。
 御玄猪の句ならバ、大きにふるかるべしといへり。古実・古事等ハ、予穂やの時、句作りを発明して置ぬ。
 雪ちるや穂やの薄の刈残し    翁
 御命講や油のやうな酒五升    同
 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由
 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六
 山科や五荷三束に菊の花     同
 皆穂やの格式より作り出る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.160~161)

 「穂や」の句は『猿蓑』の、

   信濃路を過ぐるに
 雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉

の句のことをいう。穂屋は諏訪の御射山社祭のことで、諏訪大社のホームページには、「青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。」とある。旧暦七月二十七日に行われていたが、今では新暦月遅れの八月二十八日に行われている。
 ところで、芭蕉は貞享五年秋の『更科紀行』の旅の時には木曾から更科へ向い、善光寺を経て江戸に帰ったため、諏訪は通っていない。諏訪を通ったとすれば貞享二年夏、『野ざらし紀行』の旅の帰りであろう。いずれにせよ芭蕉は冬の信濃路を通ったとは思えないので、この句は人から聞いた御射山社祭のことを元にした想像によるものと思われる。

 御命講や油のやうな酒五升    芭蕉

の句は元禄五年江戸での句で、御命講は日蓮上人の命日十月十三日に行われる。日蓮消息文「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」が出典だという。許六が江戸で芭蕉と対面した頃の句だ。「油のような酒」はどういう酒かよくわからない。日蓮の時代なら「南都諸白(なんともろはく)」だったかもしれない。ウィキペディアには、

 「南都諸白(なんともろはく)とは、平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称。
 具体的には菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」を筆頭として、「山樽(やまだる)」「大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」などが有名である。
 まだ大規模な酒造器具も開発されておらず、台所用品に毛の生えた程度の器具しかなかったと思われるこの時代に、菩提酛、煮酛など高度な知識の集積にもとづいて、かなりの手間を掛け、精緻に洗練された技術で製造していたと思われる。」

とある。どぶろくが主流の時代に黄色味のかかった透き通った酒を造っていたので、「油のような」と表現したのかもしれない。

 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由

 「御玄猪(おげんちょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語)
  ① 陰暦一〇月の亥(い)の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠を食べて、その年の収穫を祝った。亥の子。おげんじゅう。
  ※俳諧・類柑子(1707)中「偖、仰せ下さるるやうは、此の餠はきのふ御玄猪なりし、宸宴、供物のあまり也」
  ② 陰暦一〇月の最初の亥の日に食べる亥の子餠。おなり切り。玄猪。つくつく。おげんちょう。
  ※年中定例記(1525頃)「禁裏様御源猪のつつみ紙を一番に伝奏御持参にて、ひろげて被レ参候へば、御頂戴候」
  〘名〙 (「ご」は接頭語) 陰暦一〇月の亥の日の亥の刻に、新穀でついた餠を食べて祝うこと。また、その餠。亥子(いのこ)。亥子餠。ごげんじゅう。ごげんちょう。おげんじゅう。おげんちょ。〔俳諧・年浪草(1783)〕」

とある。
 「亥の子餠」は『源氏物語』葵巻にも登場する。おそらく若紫が女になった時であろう。不機嫌に何日もふさぎ込んでたののご機嫌取りと婚姻のお披露目を兼ねて、惟光に亥の子餠ならぬ「ねの子餅」を作るように指示している。(源氏の君の寝た女で処女喪失と思われる記述のあるのは若紫だけではないかと思う。)
 「公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。」というのは言われてみないと、今となってはわからない。この句を見ただけでは、単に御玄猪が銀杏の散る頃のものだというぐらいで通り過ぎてしまうところだ。

 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六

 矢の根は矢尻のこと。神矢の根は岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 「『閑窓随筆』に『出羽国吹浦 一作福浦村の辺に甚雨疾雷ののち、神矢の根といふものを降らす。土人のいはく、是れハ神軍ありて、空中よりふらするものなりと。云々』とある。」

 出羽国吹浦は芭蕉も通っている。酒田で、

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

と詠んだあの吹浦で、曾良の『旅日記』の酒田から象潟へ向かうときの記述に、

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

とある。
 「オンライン辞書・事典検索サイト・ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」によると、

 「遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎ふじさき地区神矢道かみやみちでも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。
 近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ矢やノ子ね石、また神矢石とよんでいた。」

 つまり、「神矢の根」は縄文・弥生時代などに作られた石鏃(せきぞく)で、雨で土が流されて露呈した物を見た古代人が、神様が戦争をやって、その矢が空から降ってきたと思ったのだという。
 許六の句は立春で、正月飾りに用いる歯朶を取りに行くと神矢の根が見つかって、破魔矢のようでお目出度いということか。

 山科や五荷三束に菊の花     許六

 山科は東海道の京と三条大橋と大津宿の間にあり、交通の要衝だった。「五荷三束に菊の花」は何か出典があったのだろう。よくわからない。

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