「守武独吟俳諧百韻」の続き。
十七句目。
後のなみだはただあぶら也
口つつむつぼの石ぶみまよひきて 守武
壺の碑(いしぶみ)はウィキペディアには、
「12世紀末に編纂された『袖中抄』の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。
「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。」
とある。
「つぼ」という地名のところにあったから壺の碑で、壺に書いたわけではない。
江戸時代になると仙台の方で多賀城碑が発見され、芭蕉もここを訪れ、「羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と記している。ただ、これは『袖中抄』の記述とは一致しないし、天平宝字六(七六二)年という碑に記された建立の年号も坂上田村麻呂がまだ四歳の時で、壺の碑より古い。
壺は「つぼむ」と掛けて、口を包んで(口を抑えてのことか)つぼむ壺の碑となる。そんな言うに言われぬことを記した文に迷い涙を流すが、物が壺なだけに壺に入った油のようなものだとなる。
十八句目。
口つつむつぼの石ぶみまよひきて
奥州なればものもいはれず 守武
『連歌俳諧集』の注には奥州には口を包む習俗があることと訛りがひどいことをあげているが、後者に関しては近代の標準語制定以降の話で、近世までは奥州に限らず日本中どこへ行っても独自の方言を喋っていた。そのため連歌は八代集の歌語、いわゆる雅語を用いていた。
俳諧の言葉も雅語を基礎としながら謡曲や浄瑠璃や漢文書き下し文などの言葉を取り込み、さらに江戸上方などの俗語を交えた作られた共通語だった。
口を包むというのはおそらく寒さのためであろう。
十九句目。
奥州なればものもいはれず
なかなかの判官どのの身の向後 守武
壺の碑に奥州に判官(義経)と、ここでも展開は緩い。
源の判官義経殿がその後どうなったかというと、奥州のことなのでなかなかわからない。
義経が北海道に渡ったという説は、ウィキペディアによるなら、
「寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。」
という。守武の時代にはまだなかったようだ。義経=ジンギスカン説はシーボルトの『日本』が最初だとされている。
二十句目。
なかなかの判官どのの身の向後
しづかが心なににたとへん 守武
義経の波乱万丈の生涯を思えば、静御前もさぞかし心休まることがなかっただろう。そんな静御前の心を何に喩えればいいのか。
天文九年(一五四〇年)の『守武千句』には、
月見てやときはの里へかかるらん
よしとも殿ににたる秋風 守武
の句がある。これを受けて芭蕉が『野ざらし紀行』で詠んだ。
義朝の心に似たり秋の風 芭蕉
という句もある。
静御前の心も喩えるならやはり秋風だろうか。
二十一句目。
しづかが心なににたとへん
花みつつ猶胎内にあぢはへて 守武
この頃には各懐紙の最後の長句が花の定座という意識があったようだ。三の懐紙が二句最後から二番目の長句になっているだけで、あとは最後の長句になっている。
静御前の花の舞だとすると打越の義経からなかなか離れられない。このあたりもやはり展開が緩い。
鎌倉での静御前の花の舞は桜ではなく卯の花だったが、このとき静御前は義経の子を孕んでいて、頼朝に男子だったら殺すといわれ、その通り男子が生まれ殺されたと『吾妻鏡』は記す。
二十二句目。
花みつつ猶胎内にあぢはへて
いとどへそのを永き日ぐらし 守武
前句の「胎内にあぢはへて」を『伊勢物語』四十四段の「この歌は、あるがなかに面白ければ、心とどめてよまず、腹に味はひて。」の腹で味わう(腹の中に留めておく)の意味にする。
花を見ながらそれを腹に留め、「胎内」との縁で臍の緒のように長い一日を暮らす、と続ける。
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